吉田城藩主 松平(大河内)伊豆守信古(おおこうち のぶひさ)
索引
福包 (ふくづつみ)
松平(大河内)伊豆守信古 (まつだいら おおこうち いずのかみ のぶひさ)
松平信古(まつだいらのぶひさ)は、文政12年(1829)に生まれ、明治21年(1888)、60年の江戸後期から明治の生涯を閉じた。この豊橋の殿様は、幕末から明治にかけて万年青を楽しんだことで有名で、特に福包を自ら交配し、作り上げたことでも萬年青界への貢献は計り知れないものです。
松平信古(まつだいらのぶひさ)の生涯と、万年青をどのように大切にしたのかについてお話します。
三河吉田藩(愛知県豊橋)藩主 松平信古(まつだいらのぶひさ)の生涯
松平信古(まつだいらのぶひさ)は、たぐいまれなる優秀な人だったようで、20才の若さで現豊橋市の三河吉田藩藩主になり、その年に12代将軍徳川家慶に仕え、13代家定、14代家茂、15代慶喜まで仕えました。江戸幕府のトップといわれる三奉行の内の寺社奉行や、大阪城代を勤め上げ、エリート中のエリートだったんですね。後に明治政府の豊橋藩知事にまでなっている。子孫には、政治家、物理学者、理化学研究所3代目所長の大河内正敏(婿)がおり、無名時代の田中角栄を引き立てた。
福包作出の超がつくほどの万年青愛好家
増訂『萬年青圖譜』(明治三十三年(西暦 1900年))で本人が言うには、江戸時代、万年青は常緑の深い緑から、特に霊草と考えられ、大切にされてきました。松平信古(まつだいらのぶひさ)は、若いころから万年青を愛し、常に傍らに置き、暑さ寒さ、晴れや雨の度に、外にだしたりして、朝から晩まで万年青の培養に力を入れてきました。そのかいあって、実が結び、多くの実をまいた。それでも変わったもの、優れた物は得難いが、この【福包】という品を作出することができ、大変好評だ。と述べています。
これを読むだけで、どれだけ松平信古(まつだいらのぶひさ)が万年青の世話を甲斐甲斐しく焼いていたのかわかると思います。朝晩毎日、一年中万年青を世話をして、常に手元に万年青を置いて可愛がっていた。それだけの人だったからこそ、福包を作出することができたのですね。
増訂『萬年青圖譜』 福包之記
萬年青は一種の霊草なり青々の色長く改めす萬年青の名空しからすと云ふへし其世に行くはるること年巳に久し余弱冠の比より深く此を愛し常に座右に置き又園中に出して寒暖晴雨の度を候し朝暮培養に怠らす故に年々に繁茂を加へ新芽を生し嘉實を結ぶこと多し但し其数多しと伝へとも奇種名品は得易すからす特に此福包と名つくる一種は自ら他に勝れるを同好の諸君細観ありて佳評を賜はゝ幸なり 谷口亭主人誌
福包(ふくづつみ)
安政年間江戸谷口亭主人の鍬形といふ萬年青に結びし実を蒔きて生せしたものなり此谷口亭ト云フハ旧三州豊橋ノ主従四位大河内候ナリ戸谷口亭主人の小記を得たれハ之を左に掲る。さらに、この「福包」から実生作出した萬年青に信古は、「小包」「宝牡丹」の雅名を与え世に問うてもいる。
松平(大河内)伊豆守信古(おおこうち のぶひさ) 間部下総守詮勝の次男
東海道53次 吉田城
三河吉田(豊橋)7万石の藩主だった、松平(大河内)伊豆守信古は万年青を肌身離さず愛玩し、とても大切にしたという記録が残っています。また、万年青の実生を作ったことでも有名な人で、実生家、ブリーダーとしての大先輩です。安政年間に「鍬形」というオモトの実を蒔いて、「福包」を得られ、、
明治18年肴舎篠常五郎著 『萬年青圖譜』に掲載された
品種「福包」 題字 岩谷一六書。
江戸時代優雅に萬年青を楽しんだ大名が、三河吉三(豊橋)七万石の最後の藩主・松平(大河内)伊豆守信古である。吉田(豊橋)藩松平氏は、もと三河の国宝飯郡長沢村からでたので長沢松平氏と称したが、その嫡流が絶えたため、同じ三河の国額田郡大河内村から出た大河内氏か跡を継ぎ、大河内松平氏といわれるようになった。この家を有名にしたのは、徳川三代将軍家光のとき、三十年間にわたって老中職を勤め、人をして智恵伊豆といわしめた松平伊豆守信綱を出したからである。
おもと史探訪 福包
江戸時代、ひとくちに三百諸侯といわれた大名家、そのなかには萬年青を愛で、そして楽しんだ大名が数多くいた。これら、萬年青を愛した諸侯および幕臣の幾人かを、いまに遺されている書物に訪ね、萬年青との関わりを探りいくらかでもあきらかにしたい。徳川家も大名のひとりであるとするならば、その十一代将軍家斉は、まず筆頭にあげなければなるまい。徳川家斉は、安永元年(1772)一橋治済の子に生
まれ、天明七年(1782)将軍となる。
その政治は、松平定信をして寛政の治を致し、定信引退後は自ら政を執り、文化・文政の時代を成し、天保八年(1837)まで実に五十年の長きにわたった。
家斉か゛自ら進んで萬年青を楽しんだかどうかはわからないが、明治十八年三月、肴舎篠常五郎が編輯兼出版した『萬年青圖譜』に当時、報知新聞の主筆であった栗本鋤雲(もと幕府医官・六世瑞見栗本瀬兵衛のち医籍を改めて士籍に列し、箱館奉行、軍艦奉行、外国奉行、さらに勘当奉行、を歴任)つぎの一文を寄せているから、家斉が全く萬年青に関心がなかったとはいえない。すなわち、栗本小萬年青此種ハ今報知新聞の主筆栗本鋤雲翁か゛祖先の培養に成る者なり曾て翁か゛小記を得たれハ之を左に揚げて図解に代ゆとある。
このころ優雅に萬年青を楽しんだ大名が、三河吉三(豊橋)七万石の最後の藩主・松平(大河内)伊豆守信古である。吉田(豊橋)藩松平氏は、もと三河の国宝飯郡長沢村からでたので長沢松平氏と称したが、その嫡流が絶えたため、同じ三河の国額田郡大河内村から出た大河内氏か跡を継ぎ、大河内松平氏といわれるようになった。この家を有名にしたのは、徳川三代将軍家光のとき、三十年間にわたって老中職を勤め、人をして智恵伊豆といわしめた松平伊豆守信綱を出したからである。
大河内信古は、安政六年(1859)から年(文久二1862)にかけて寺社奉行であった。萬年青との関わりについては、現在でも稀に見ることの出来る珍種「福包」が、この人の作出とされている。
増訂『萬年青圖譜』 福包之記
萬年青は一種の霊草なり青々の色長く改めす萬年青の名空しからすと云ふへし其世に行くはるること年巳に久し余弱冠の比より深く此を愛し常に座右に置き又園中に出して寒暖晴雨の度を候し朝暮培養に怠らす故に年々に繁茂を加へ新芽を生し嘉實を結ぶこと多し但し其数多しと伝へとも奇種名品は得易すからす特に此福包と名つくる一種は自ら他に勝れるを同好の諸君細観ありて佳評を賜はゝ幸なり 谷口亭主人誌
福包(ふくづつみ)
安政年間江戸谷口亭主人の鍬形といふ萬年青に結びし実を蒔きて生せしたものなり此谷口亭ト云フハ旧三州豊橋ノ主従四位大河内候ナリ戸谷口亭主人の小記を得たれハ之を左に掲る。さらに、この「福包」から実生作出した萬年青に信古は、「小包」「宝牡丹」の雅名を与え世に問うてもいる。
このほか、肥後熊本五十四万石・細川家十二代細川韻邦も萬年青を好んだ。
豊明園