江戸のおもと 古典園芸 安政、文久は何年前?

江戸のおもと
古典園芸
安政、文久は何年前?

 

お花 ばら
豊明園2代目、淳蔵の大切な人の大事な日
ありがとうございます

雪中の松 せっちゅうのまつ
初代淳治郎が命名
大葉の小型種
かなり古くからあったと思われるが、
作出時期などは不明
淳治郎の時代なので、明治期から昭和初期には
広く存在した品種

近年、図性の特別に良い物がでて
一気に人気が広がった
この木は全国大会でも賞をとった系統で
白さ抜群、図の良さから来る葉のひねりもあり
葉芸もひそかな見所

江戸時代の品種

良く分かっているもので、
残雪(作出年度 安政年間)
都の城 五大州(作出年度 文久元年) 還城楽
日月星(作出年度 安政年間)
一文字(作出年度 寛政以前)
富士の雪 作出年度 文久元年
福包 豊橋のお殿様が作出
http://www.houmeien.co.jp/newpage229.htm
文鳥丸 江戸時代の文献にはすでに出ているので、
かなり古くからあり、広まっていたか

作出と広まっていくのはちがい、
今の実生物もそうだが、作出されても、
広く人気が出て皆が持つまで30年前後、
ものによっては50年はかかるでしょう
1本から5本に増えるのに10年はかかる
文鳥丸のようにすでに広まっていた場合は
それよりかなり前から存在していたのでは?
と考えています

紅流し =紅骨
江戸、明治の文献に多数出現
本高隈 =太白山
作出年度 享保11年(1726)以前か?
作出者 川越家が見出す

玉獅子 明治の初めか?江戸までさかのぼれるか
文献登場
七変化 ?
永島 家康が江戸城入場の折に持って入ったとされる
伝説の万年青
古くは永島おもとという、今でいう千代田おもとや、
獅子おもとなどのグループを指したか
永島の銘観がのこる
玉川竜?
寿?
根岸の松 江戸作出 命名者 篠常五郎
作出者 篠常五郎 作出年度 安政4年(1857)
司鼈甲つかさべっこう
雪月花?
墨流し 江戸
江戸紺
江戸残雪

虎の子
水菜虎 白牡丹

2015年は、
文久は約150年前
安政は約155年前

 

文久(ぶんきゅう)は、日本元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年(文久元年)から1864年(文久4年)間での期間を指す。この時代の天皇孝明天皇江戸幕府将軍は徳川家茂

改元

 

安政(あんせい)は、日本元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1854年[1]から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇江戸幕府将軍は、徳川家定徳川家茂

改元

朝廷は「文長」を希望していたが、幕府の介入によって「安政」に差し替えられ、実施日も前将軍徳川家慶の月法要(毎月22日)終了後に変えられた。

 

 


素晴らしい蓮香はちすか
明治初期に鹿児島の蓮香氏が発見と伝えられているが
詳しいことは分かっていない大葉では、かなり古い品種があるはずだが、
見分けることが難しいのと、
きちんとした特徴が伝わっていないので難しい


文化庁長官表彰
 
青木慶祐
公益社団法人日本おもと協会名誉会長
 
永年にわたり、おもとの名作者として活躍するとともに、
日本おもと協会の役員・会長を歴任しておもと文化の普及・啓発に
尽力するなど、我が国の芸術文化の振興に多大な貢献をしている
 
 
森進一(67)さん、コロッケ(54)さんら35人と
世界文化遺産に登録された富岡製糸場(群馬県富岡市)を操業停止後も処分せず、05年に市に寄贈するまで保全してきた片倉工業(東京都)の1団体が表彰されました。
 
 
山野草、おもとを取り上げてくださる栃の葉書房でも
青木会長の祝!文化庁長官表彰 特集を予定しています。
 
 
 
平成26年度 文化庁長官表彰
文化庁の広報ページ
 
 
 
 
 
 
 
 
 

徳川家康がお宮参りをした岡崎 六所神社

『始めよう伝統園芸おもと』の本
おもとの豊明園 引越しおもと 趣味者のおもと
http://www.houmeien.co.jp/

鉢とおもとの裏表

 

蒀即萬年青 妄仚様に中国における万年青をまとめていただきました 大発見!!!!!

最初から最後まですべて大発見

2020.8.25妄仚様から追加の資料を頂き、追記。

万年青は中国では7000年以上の鉢植えの歴史の大本だった

蒀即萬年青

蒀即萬年青,在中華文化中歷史悠久,河姆渡新石器遺址,約7000年前的第四文化層上發掘出兩枚刻花陶片,出土一枚陶片上刻了五片大葉的植物,不管是型態細節都是萬年青的特徵。此為中華盆栽之濫觴。

英訳

蒀 is Evergreen(OMOTO) and has a long history in Chinese culture. At the Hemudu Neolithic site, two carved pottery pieces were excavated on the fourth cultural layer about 7,000 years ago. One pottery piece was unearthed with five large leaves of plants. The details of the form are the characteristics of Evergreen. This is the origin of Chinese potted plants.

和訳

蒀は万年青であり、中国文化で長い歴史があります。ヘムドゥ新石器時代の遺跡(河姆渡遺跡)では、約7,000年前に4つ目の文化層に2つの彫刻が施された陶器が発掘されました。 1つの陶器の作品は、5つの大きな植物の葉で発掘されました。フォルムのディテールは万年青の特徴です。これが中国の鉢植えの原点です。

河姆渡遺跡 ヘムドゥ新石器時代の遺跡

長江下流の新石器時代中期、紀元前5000年頃の稲作が明らかな農耕遺跡。長江文明の中心遺跡として重要。

 河姆渡(かぼと)遺跡は、長江の下流域の杭州湾南岸の沖積低地に位置する稲作農業(水稲)を基盤とした紀元前5000年頃~3300年頃(約8000~5000年前)新石器時代中期の遺跡であり、大量の稲籾、稲殻、籾殻などが平均して20~50cmにわたって堆積し、最も堆積の厚いところでは1mに達していた。1970年代に行われたこの発掘で、長江下流域に稲作の起源をもとめる説が強まった。現在では長江中流域の湖南省彭頭山遺跡から、河姆渡文化よりも古い、紀元前7000~6000年頃に遡る栽培種の稲が出土し、長江中流域稲作起源説が強まっている。<竹内康浩『中国王朝の源流を探る』世界史リブレット95 2010 山川出版社 p.17-18>

稲作農業の起源

重要なことは、長江下流域で河姆渡遺跡で稲作農業が発達した前5000~4000年という時期は、華北において仰韶文化が栄えていた時期と同時期であり、そちらはヒエ・アワを中心とした畑作農業であったことである。これによって、従来は黄河流域の仰韶を中心とした黄河文明が中国文明の源流として強調されてきたが、それとは別に、稲作農業を基盤として発展した長江文明の存在が明らかになった。最近では黄河流域の文化と長江流域の文化をあわせて中国文明として捉えられるようになっている。<NHK 世界四大文明展『中国文明展』2000年による>

 

 

古い文学にも、万年青は登場する

在文學中西晉左思的《蜀都赋》中就有“郁葐蒕以翠微”而這個指的是覆盆子和萬年青,代指茂盛如雲霧般生長在山壑間。

英訳

In the literature of the Western Jin Zuo Si’s “Shu Du Fu”, there is “Yu Ping Lian Yi Cui Wei” and this refers to raspberry and OMOTO(Evergreen), which refers to the luxuriant growth in the mountains and gully like clouds.

和訳

西晉左思の「蜀都赋 / 周杜福」の文学には「郁葐蒕以翠微 / 玉平蓮一翠偉」があり、これはラズベリーと万年青を指し、山と雲のようなガリーの豊かな成長を指します。

《蜀都赋》とは

西晋(せいしん)は、司馬炎によって建てられた中国王朝265年316年)の時代の作品。

西晋王朝の作家であり、山東省のリンジー(現在のジーボー)出身の左思(250-305)によって書かれた、彼の “Sandu Fu”( “Wu Du Fu”と “Wei Du Fu”)の1人です。当時、伝染用にこの風車が複製され、首都である洛陽の紙の値段も高かったため、「洛陽の紙は高い」という言葉がありました。 「シュウの首都のフー」は、特性、山と川、バスーの習慣を非常に詳細に説明しており、フーは当時の四川の巨人のごちそうと飲酒の生活を描いています。福に記録された多くの製品や食品の習慣は、四川料理の歴史、さらには中国料理の歴史を研究するために後世に利用できる貴重な資料です。

创作年代
西晋
作品出处
《水经注》《太平御览》
文学体裁
作    者
左思、杨雄
左思 さし とは
(さ し、生没年不詳、一説に252年307年[1])は、中国西晋の文学者。太沖斉国臨淄県の人。門閥の後ろ盾のない寒門の出身であり、官途は不遇だったが、文才に優れ、代表作『三都』は「洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)」の故事の由来となった。妹の左棻も詩文の才能があり、司馬炎の妃となった。

 

左思 さし とは

创作年代
西晋
作品出处
《水经注》《太平御览》
文学体裁
作    者
左思、杨雄

 

作品名称
蜀都赋
外文名称
Shu-du fu
作品别名
蜀都赋
    创作年代西晋作品出处《水经注》《太平御览》文学体裁赋作    者左思、杨雄

左思 さし とは

(さ し、生没年不詳、一説に252年307年[1])は、中国西晋の文学者。太沖斉国臨淄県の人。門閥の後ろ盾のない寒門の出身であり、官途は不遇だったが、文才に優れ、代表作『三都』は「洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)」の故事の由来となった。妹の左棻も詩文の才能があり、司馬炎の妃となった。
左熹の子として生まれた。史書によると、左思は寒門の出身の上、容貌は醜くどもりであったが、学問に励み文章に巧みであったという。

略歴

妹の左棻が西晋の武帝司馬炎の後宮に入ったので、首都の洛陽に家を移した。三国の首都を題材にした『三都賦』の執筆を思い立ち、10年の歳月をかけてこれを完成させた。完成当初は世人の批判を浴びたが、当時の文壇の大御所である張華にこれを見せると、張華は班固の『両都賦』や張衡の『二京賦』に匹敵する傑作だと激賞し、無名の左思に名士の手を借りることを勧めた。左思が名士の皇甫謐に序文を書いてもらうと、『三都賦』の名声は大いに高まり、以前批判した者たちも手のひらを返して褒め称えたという[2]人々が争って『三都賦』を筆写したため、洛陽城内の紙の値段が高騰したという逸話は、後に「洛陽の紙価を高からしむ」の故事となった。左思と同時代の文学者である陸機も、同じく『三都賦』の制作を構想していた。陸機は洛陽に上京すると左思の噂を聞いたが、弟の陸雲に手紙で「田舎者の『三都賦』が出来上がったら、酒瓶の覆いにするのがよかろう」といって、まるで相手にしていなかった。しかし完成した左思の賦を見るや、その出来映えに脱帽し、自身の制作を断念したという。

後に権臣の賈謐の招きに応じ『漢書』を講じた。300年八王の乱で賈謐が趙王司馬倫に誅殺されると、官職を辞して隠棲し、典籍に没頭した。

303年、河間王司馬顒の将軍張方が洛陽で暴虐の限りを尽くすと、左思は家をあげて冀州に避難し、数年後に病没した。

文学作品

隋書経籍志によると、文集2巻(代には5巻、目録1巻)が存在していたとあるが散逸した。現存する文学作品としては、上述の『三都賦』のほか、寒門出身として当時の貴族社会への批判を込めた「詠史詩」や「招隠詩」、自分の娘の様子を描いたユニークな内容の「嬌女詩」が代表作とされる。鍾嶸の『詩品』では最上位の上品に列せられ、劉楨の力強い詩風を受け継ぎ、諷諭の精神を体得すると評されている。

万年青(おもと)の別名は?意味は?

漢方での万年青

而在中藥醫典上萬年青也可作為清熱藥的中藥材使用,在《本草新編》記載將萬年青的根莖和葉作為藥用,可有強心利尿、清熱解毒、涼血止血的功效,藥性為苦、甘、寒,有小毒。可用於防治白喉、白喉引起的心肌炎、咽喉腫痛、以及小便不利等疾病。不過萬年青有一定的毒性,會產生洋地黃苷樣作用。

英訳
In the Traditional Chinese Medicine Code, OMOTO can also be used as a Chinese medicinal material for clearing away heat. It is recorded in the “New Edition of Materia Medica” that the rhizomes and leaves of OMOTO are used for medicinal purposes. It is bitter, sweet, cold, and slightly poisonous. It can be used to prevent and treat diphtheria, myocarditis(心筋炎) caused by diphtheria, sore throat, and poor urination. However, OMOTO has a certain degree of toxicity and can produce digitoxin-like effects.

和訳

漢方では、万年青は熱を取り除くための漢方薬としても使用できます。「本草新編 / 新薬マテリアメディカ」では、万年青の根茎と葉が薬用に使用されていることが記録されています。万年青は、心臓と利尿を高め、熱と解毒作用を取り除き、血液を冷やして出血を止める効果があります。苦くて、甘く、冷たく、少し有毒です。ジフテリア、ジフテリアに起因する心筋炎、喉の痛み、排尿不良の予防と治療に使用できます。ただし、万年青にはある程度の毒性があり、ジギトキシンのような効果をもたらす可能性があります。

※『本草新編』は『本草秘録』とも呼称される。清代の陳士鐸によって著された。宮集、商集、角集、徴集、羽集の5巻によって構成される。

※清 中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝。1616年 – 1912年

※ジギトキシン 背が高く釣鐘状の花を穂のように咲かせるジキタリスからとれるジギトキシン(Digitoxin)は、強心配糖体の一つである。心不全、心房性不整脈患者に適用される。アガサ・クリスティの『死との約束』ではジギタリスを用いた殺人が行われる。

細胞膜に存在するNa+/K+ATPaseを阻害することにより心筋細胞内のカルシウムイオン濃度を増加させ、心筋の収縮力を増大させる(陽性変力作用)。

カルシウム注射薬およびスキサメトニウムとの併用は禁忌。重大な副作用としてジギタリス中毒(強心配糖体を参照)。

※ジフテリア ジフテリア菌の感染によって起こる、主として呼吸器の粘膜が冒される感染症。菌の繁殖部位により、咽頭 (いんとう) ジフテリア・喉頭 (こうとう) ジフテリア・鼻ジフテリアなどの病型がある。心筋や末梢 (まっしょう) 神経が冒されることもある。感染症予防法の2類感染症の一。小児がかかりやすいが、予防接種の普及で減少。日本では三種混合ワクチン(DPTワクチン)、二種混合ワクチン(DTワクチン)に含まれている。定期接種の普及している国では症例は稀だがそうでない国では流行がある。

ジフテリア菌の発見は1883年。エミール・フォン・ベーリングと北里柴三郎血清療法を開発。その功績でベーリングは第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 

到了明清時期

英訳

To the Ming and Qing dynasties

和訳

明・清王朝へ

《靖江寶卷》中有話:「錢氏說『老太師,不能空口去說白話,把禮儀帶了去。』這遭就配了千兩金子千兩銀,珍珠瑪瑙亮晶晶,綾羅綢緞廿四匹,康桃安棗十二斤。再加上——茶花對果一槓擔,又用四支萬年青。」後文又有「二人來到東書廳一看,金漆旺旺,地下放光。天井駁得四瀉水,磨磚鋪地一樣平。金魚缸中來戲水,荷花缸上畫麒麟。牆邊栽個虎耳草,盆景栽個萬年青。」

英訳

There is a saying in “Jingjiang Treasure Scroll”: “Qian said, “Old lady, you can’t speak the vernacular without talking, and take the etiquette.” This time, it was matched with a thousand taels of gold and a thousand silver, pearl agate, shiny pearls, and silk and silk. Four horses, 12 catties of Kangtao and Anzao. In addition-Camellia to fruit and a pole load, and four perennials / OMOTO.” Later, “The two came to the East Book Hall to see it. The golden lacquer is flourishing, and they are placed underground. Light. The patio is flooded with water, and the floor is as flat as polished bricks. Play in the goldfish tank, and draw a unicorn on the lotus tank. A saxifrage is planted on the wall, and a bonsai is planted with Evergreen / OMOTO.”

和訳
「Jingjiang Treasure Scroll / 靖江寶卷」には格言があります。「銭氏は、「おばあさん、話せずに方言を話すことはできません。エチケットを取ることはできません。」今回は、何千もの金の尾と千の銀、真珠の瑪瑙、光沢のある真珠、絹と絹にマッチしました。馬4頭、カンタオとアンザオの12匹の猫。果物と棒に加えてツバキ、そして4つの万年青。」その後、「2匹が東書堂にやって来て、黄金の絵の具が繁栄し、地下に置かれました。ライト。パティオは水で満たされ、床は磨かれたレンガのように平らです。金魚の水槽で遊んで、蓮の水槽にユニコーンを描きます。壁にはサキシマゲが植えられ、盆栽には万年青が植えられています。」

證明了萬年青已在民間作為節氣觀賞植物

英訳

It proves that Evergreen / OMOTO has been used as an ornamental plant for solar terms in the folk

和訳

万年青が民俗の太陽用語の観賞植物として使用されていることを証明します

中国最後の統一王朝、清と万年青の関係

且在清朝時因國號的關係。

英訳

And in the Qing Dynasty because of the relationship of the country name.

和訳
清朝には国名の関係から。

中国最後の統一王朝、清と万年青の関係

清 1616年 – 1912年

萬年青同“萬年清”,有萬年大清之意,所以特別受清皇室及貴族的喜愛。而華北地區寒冷冬日僅一色雪白,庭園中草木凋零,所以常在室內擺設萬年青,全年長青且又有大紅果實妝點下是顯得特別喜氣。

英訳
Wannianqing is the same as “Wannianqing”, meaning Wannianqing, so it is especially loved by the Qing royal family and nobles. In North China, the color is only white in cold winter days, and the plants in the garden are withered. Therefore, the evergreens / OMOTO are often displayed indoors. They are always green all year round and decorated with red fruits.

和訳
万年青は万年清代が続くを意味する「万年清」と同じで、特に清王家や貴族に愛されています。中国北部では、寒い冬の日は白く、庭の植物は枯れてしまうため、万年青は室内に展示されることが多く、一年中緑で、赤い果実で飾られています。

萬年永清

第七十六代衍聖公の万年青のように万年、清代が栄えるように願った写真

第七十六代衍聖公 孔令貽,照片中他身旁一盆霓裳萬年青

英訳

Kong Lingyi, the 76th generation of Yan Sheng Gong, in the photo is a pot of neon clothes beside him

和訳
写真のヤンシェンゴンの76世代であるコングリンジーは、写真の横にある虹のように美しい万年青の盆栽の一鉢です

※霓裳 《「霓」は虹のこと》 虹のように美しい裳 (も) 。

 

清の宮殿に飾られる宝石で作られた万年青

在清宮中常有造辦處所製,或大臣進貢的寶石盆景,其中主題就有萬年青,通常是以桶狀盆來發揮,”一桶萬年青“寓意清朝”一統萬年“

英訳
In the Qing palace, there are often gem bonsais made by places or tributes from ministers. Among them, the theme is Evergreen / OMOTO, which is usually played in a barrel-shaped basin. “A bucket of Evergreen / OMOTO” means the Qing Dynasty’s “dominance for thousands of years.”

和訳
清の宮殿には、場所や大臣からの賛辞によって作られた宝石の盆栽がよくあります。その中で、テーマは万年青で、通常は樽型の盆鉢。「ひと桶の万年青」とは、清朝の「数千年の支配」を意味します。

一統萬年

寶符國瑞掛屏

有御詩一首

靈草恒青冬夏鮮,謂當有水洼其邊

文征畫合梓材語,惟曰保民欲萬年

戊戌嘉平之吉

英訳

Baofu Guorui Hanging Screen

There is a poem

Lingcao is always green in winter and summer, and it is said that there should be puddles beside it

Wenzheng painting combined with Zicaiyu, but it is said that the people will be saved for thousands of years

Jiapingzhiji

和訳

Baofu Guorui掛け軸

詩があります

靈草(万年青)は冬と夏は常に緑で、横に水たまりがあるはずだと言われています

深センの絵画とジカイユを組み合わせたものですが、人々は何千年もの間救われると言われています

ジャーピンジジ??

戊戌嘉平之吉 戊戌という干支

 

皇帝と万年青

嘉慶帝身旁炕桌上一盆“一統萬年“

英訳

There is a pot on the table next to Emperor Jiaqing, “Ten Thousand Years of Unity”

和訳

嘉清皇帝の隣のテーブルには「万年の統一」という万年青の鉢があります。

嘉慶帝(かけいてい)は、清の第7代皇帝ははじめ永琰(えいえん)、即位後に顒琰(ぎょうえん)と改めた。廟号は仁宗(じんそう)。在世時の元号のを取って嘉慶帝と呼ばれる。

1796年2月9日 – 1820年9月2日

乾隆25年(1760年)、乾隆帝の十五男として生まれる。乾隆60年(1795年)、85歳の乾隆帝から譲位を受けるが、乾隆帝は太上皇となっても実権は手放さなかったため、嘉慶帝は飾り物の皇帝に甘んじた。

乾隆帝が嘉慶4年(1799年)に崩御すると、嘉慶帝は真っ先に乾隆帝が重用していた奸臣和珅を誅殺した。周りの人間全てが和珅のことをろくでもない奸臣であると見抜いていたのに、耄碌した乾隆帝だけは和珅を信任し続けたため、乾隆帝が生きている間はどうしようもなく、和珅は国家に入るべき歳入のかなりの額を懐に入れていた。和珅から没収した財産は、実に国家の歳入の10~15年分に当たったといわれている。

テレビドラマ
  • 紫禁城 華の嵐(2004年、中国、演:于洋)

清の第6代皇帝、乾隆帝から、第7代皇帝嘉慶帝、第8代皇帝道光帝まで

乾隆帝(けんりゅうてい)は、清の第6代皇帝。清王朝の最盛期を創出する。弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。

弘暦(1711~1799)
清の六代乾隆帝。廟号は高宗。十回の遠征に成功したため、十全老人と号したという。在位1735~1795。雍正帝(胤禛)の四男。雍正十一年(1733)、和碩宝親王に封ぜられた。十三年(1735)、雍正帝が崩ずると、帝位についた。即位後、ジュンガル部のガルダン・ツェレンを討ち、大小ホージャの乱を平定して新疆をおさめた。チベットを安定させるため、「欽定西蔵章程」を公布して民政・軍事の権力を駐蔵大臣に委ねた。また雲南、ビルマ、台湾などに遠征し、これによって清朝の最大版図を形成した。寧波・厦門・雲台山を閉港し、西洋との交易を広州一港に制限した。英国の使節マカートニーの通商の要求もことごとく拒否した。文化面では『四庫全書』を編纂させ、一代のうちに完成させた。また多くの文化財を蒐集して紫禁城に集めた。しばしば巡遊をおこない、馬上朝廷の称もあった。土木工事を好み、多くの人力財力を消費した。帝個人はさまざまな濫費を好んだが、かれの治世は銀の入超に支えられて、前代に類をみない好景気の時代であり、清朝の最盛期であった。在位六十年で退位して嘉慶帝に譲り、太上皇帝となった。その後の三年間、院政を布いた。晩年は和珅を信任して国政が乱れ、白蓮教の乱が起こった。『楽善堂詩文全集』。

  • 顒琰(1760~1820)
    清の七代嘉慶帝。廟号は仁宗。在位1796~1820。乾隆帝(弘暦)の十五男。乾隆五十四年(1789)、嘉親王に封ぜられた。六十年(1795)、皇太子に立てられた。翌年、父帝に譲られて帝位についた。父が太上皇となり引き続き執政し、和珅が国政を専断した。嘉慶四年(1799)、父太上皇が崩ずると、親政をはじめた。和珅を逮捕して獄に下し、二十大罪を数えて、自殺を迫った。湖北・四川で起こった白蓮教徒の叛乱は五省に波及し、足かけ九年この鎮圧のために全力を尽くした。まもなく蔡牽・朱濆の乱が東南海上で起こり、北方で天理教の乱が起こって京師に迫った。乾隆中期以後、軍紀はゆるみ、軍費は増大し、官僚の汚職はきわまり、連年にわたって黄河が氾濫し、運河の交通も滞って、財政は悪化の一途をたどった。貿易収支も悪化して、嘉慶期には銀の出超となり、デフレによる賦税の実質増によって農民を苦しめた。二十五年(1820)、熱河の避暑山荘で崩じた。
    旻寧(1782~1850)
  • 清の八代道光帝。廟号は宣宗。在位1820~1850。嘉慶帝(顒琰)の次男。嘉慶二十五年(1820)八月、帝位についた。

 

 

緙絲紅子萬年青

英訳
Kesi Hongzi Evergreen / OMOTO

鈞窯方盆裡的山石、靈芝、萬年青

万年青(おもと)の別名は?意味は?

 

孔子の子孫も万年青を大切にした

第三⼗⼀代衍聖公
孔令貽與繼室陶⽂譜

英訳)The third generation of Yan Sheng Gong

Kong Lingyi and Jishi Pottery Book

和訳)第31代衍聖公

孔 令貽 ?

この写真自体が凄い発見です。

この写真は、第三⼗⼀代の衍聖公(えんせいこう)の写真ですが、

そもそも衍聖公(えんせいこう)とは、あの有名な孔子のご子孫が代々世襲する役職です。

76代目の孔 令貽(こう れいい)さんが万年青とともに写真に写っています。

孔子の子孫も万年青を非常に大切にしたことがわかる。

孔子は、紀元前550年ごろ生まれた哲学者、儒教の祖

です。孔子の道徳思想の徳目は忠・孝・仁・義・礼・智・信・恕。

「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」(雍也篇)

現代語訳:(これを理解しているという人はこれが好きだという人に負ける。これが好きだという人はこれを楽しんでいる人に負ける)

「巧言令色すくなし仁」(学而篇)

現代語訳:(さわやかな弁舌にうまい人あしらい、こういう連中に仁はない)

「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」(学而篇)

現代語訳:(学ぶこと、それを実践して身につけること、なんと喜ばしいことだろう。友ができ、遠方からも学問の同志が集まってくる、なんと楽しいことだろう)

 

衍聖公 とは 孔子の子孫が世襲する役職?爵位?

 

衍聖公(えんせいこう)は北宋から清にかけての封爵名。孔子の嫡流の子孫が世襲した。

始皇帝は九世の子孫の孔鮒を魯国文通君に封じた。前漢高祖は孔鮒の弟の孔騰を奉祀君に封じた。

その後、儒教が前漢の国学となるとその宣揚のために元帝は十三世の子孫の孔覇関内侯の爵位と褒成君の号を与え、哀帝は十四世の子孫の孔吉を殷紹嘉侯に封じた。平帝1年に十六世の子孫の孔均を褒成侯に封じ、世襲とした。以後、後漢明帝が十八世の子孫の孔損を褒亭侯に封じたのと安帝が十九世の子孫の孔曜を奉聖亭侯に封じたのを除けば、代を通じて褒成侯の爵位が受け継がれた。

その後、三国魏では宗聖侯、南朝宋では奉聖亭侯、北魏では崇聖侯、北斉では恭聖侯と改められた。北周の時に鄒国公に格上げされ、では文帝が鄒国公に封じたが、煬帝のときに紹聖侯に改められた。

では当初は褒聖侯に封じていたが、開元年間に孔子に文宣王の称号が贈られると、褒聖侯も公爵に格上げされ、文宣公と呼ばれるようになった。北宋仁宗至和2年(1055年)に文宣公は衍聖公に改められ、後代に受け継がれた。

1935年国民政府朝の爵位を廃止し、衍聖公を大成至聖先師奉祀官と改めたが、依然として世襲とされている。

Wikipediaより

孔 令貽 とは 孔子の76代目の嫡孫。

孔 令貽(こう れいい、1872年1919年)は、孔子の76代目の嫡孫。字は谷孫、号は燕庭

4歳で父を喪い、1877年衍聖公を襲爵した。

家学を学んでいたが、1888年光緒帝に謁見のため北京に赴いた。

北京滞在中に吏部右侍郎孫毓汶の娘と結婚し、1889年翰林院侍講に任じられ、正式に衍聖公としての職務を行うようになった。

1898年、寄付を行って曲阜に16の初等小学堂、1つの高等小学堂を設立した。

1907年、山東省の教育の調査を命じられた。

1912年袁世凱中華民国の臨時大総統に就任すると、祝賀の上書を送っている。国会議員に推薦されたが、固辞した。翌年、袁世凱が正式に大総統となるとこれまで通り衍聖公の地位を認められた。

1915年より袁世凱の皇帝即位を積極的に支援し、袁世凱の帝制実現後は郡王に封ぜられた。

1917年朝の復辟の際には祝賀の電報を送っている。

1919年、北京を訪れて溥儀に拝謁したが、11月8日に太僕寺街衍聖公府で病死した。

詩・画・書に優れていた。

先代:
孔祥珂
衍聖公
1877年 – 1919年
次代:
孔徳成

Wikipediaより

 

 

第三⼗⼆代衍聖公
孔德成和妻⼦孫琪芳

後⽅案桌上設五供⼜有兩盆萬年青裝飾

英訳) The 32th generation of Yan Sheng Gong
Kong Decheng and his wife Sun Qifang

There are five offerings on the back table with two pots of OMOTO decoration

和訳) 第32代 衍聖公
孔德成と彼の妻Sun Qifang

後ろには、万年青の装飾が施された2つの鉢が5つあります。

孔 徳成 とは? 孔子77代目嫡孫。32代衍聖公

孔 徳成(こう とくせい、1920年2月23日2008年10月28日)は、孔子の77代目の嫡孫。字は玉汝、号は達生。32代衍聖公大成至聖先師奉祀官台湾大学教授、中華民国台湾考試院院長・総統府資政。麗澤大学名誉博士。

青少年期

1920年2月23日山東省曲阜孔府で誕生した。父の孔令貽は前年の1919年11月8日北京の太僕寺街衍聖公府で死去していた。生母の王宝翠も出産後すぐに亡くなったため、孔令貽の正妻の陶氏に養われた。生後百日の6月6日、大総統徐世昌は衍聖公の襲爵を認める大総統令を出した。1924年から呉伯簫より英語を、詹澄秋より琴を学び始めた。1929年、陶氏が死去した。

1935年、民国に世襲の爵位が存在するのは不適切として、南京国民政府は衍聖公の称号を廃止した。しかし儒教の伝統を途絶えさせることはできないとして、衍聖公を大成至聖先師奉祀官に改めた。これは中華民国で唯一の世襲の特任官であった。この年の7月に陳立夫主催、戴季陶監督のもと南京で就任の宣誓を行い、蒋介石の臨席を得た。1936年より荘陔蘭より国学と書を学び始めた。書は始めは王羲之王献之の手法から学び、後に顔真卿北魏張猛龍碑からも学び、さらに甲骨文字や金石文も研究した。同年12月16日朝の大臣孫家鼐のひ孫の孫琪方と結婚した。

この結婚の時の写真か??

先代:
孔令貽
衍聖公
1920 – 1935
次代:
先代:
大成至聖先師奉祀官
1935 – 2008
次代:
孔垂長
先代:
劉季洪
考試院院長
1984 – 1993
次代:
邱創煥

 

 

誰か意味が分かる方、是非お教えください!!

字の意味から、とっても縁起の良いことを言われているのかな、と想像しますが、、、

 

 

清供圖
六朝南⿑、南史晉安王⼦懋傳:「有獻蓮華供佛者,眾僧以銅甖盛⽔,漬其莖,欲花不萎
以“供”為思想的陳設出現
⽽“清”字義為:澄淨、純潔
來對於節氣改變⽽對室內空間的淨化
衍⽣出“清供”這樣特殊的室內陳設⽂化
然⽽漸漸變為繪畫主題,來解決無實物陳設依然有節氣清供的感受

英訳)Qing court
In the Six Dynasties Nan⿑, the Southern History King Jin’an Biography: “There are those who offer lotus flowers to the Buddha, and the monks use copper poppies to fill the water, soak the stems, and they will not wither.
Appearance of furnishings with the idea of ​​”offering”
⽽”Qing” means: clear and pure
To change the solar terms and purify the indoor space
Derive the special interior furnishings such as “Qing Gong”
However, it gradually became the theme of painting, to solve the feeling of no physical furnishings and still have a sense of solar terms and offerings

和訳)清宮
南朝時代の南朝、南安王晋安伝:「仏に蓮の花を捧げる人がいます。僧侶たちは銅のポピーを使って水を満たし、茎を浸します。枯れることはありません。
提供するという考えのある家具の外観
⽽「清」の意味:明確で純粋
ソーラータームを変えて室内空間を浄化する
「Qing Gong」などの特別なインテリア家具を引き出す
しかし、それは次第に絵画のテーマになり、物理的な家具がないという感覚を解決し、まだ太陽の用語と提供の感覚を持っています

こちらも、特に後半意味がわかりません。わかる方がいらっしゃいましたら、ご連絡ください。

 

 

 

 

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徳川家康公の万年青 六所神社の万年青彫刻

 

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石清水八幡宮  国宝の社殿の中に万年青彫刻

石清水八幡宮

この記事を3行で

石清水八幡宮は、御許山(おもとやま)にある宇佐八幡宮から勧請された三大八幡宮。京都の裏鬼門を守るために建てられた国宝の石清水八幡宮に、万年青の彫刻が17ありました。国宝のため写真はありません。

#があり過ぎる

石清水八幡宮自体が、歴史好きにはたまらない神社で、徒然草、楠正成、信長塀、豊臣家建造の社殿、三代将軍徳川家光が建造の社殿、鬼門、二所宗廟、日本三大勅祭の「石清水祭」、羽柴秀吉と明智光秀の天王山の合戦、左甚五郎の彫刻、松花堂弁当のもとと、1200年の歴史で、常に表舞台になっていた神社です。

基本情報

■石清水八幡宮
【参拝時間】6:00~18:00、授与所8:30~18:00 ※季節による変動あり
昇殿参拝 11:00~、14:00~(神職さんによる案内付、祭典行事などにより時間の変動あり。1/1~2/3は休止)※2020.7.24現在、電話で確認したところ休止しております。10月再開を目指すそうですが、状況次第なので、石清水八幡宮さんへご確認ください。昇殿参拝か、ご祈祷をしないと万年青彫刻は見れません。

【参拝料】境内無料、昇殿参拝1,000円
【電話】075-981-3001 FAX 075-981-9808

〒614-8588 京都府八幡市八幡高坊30

アクセス

社殿すぐから、参道の写真をとったところ。奥に15分間隔で麓(ふもと)とつなぐケーブルカーがある

木津川・宇治川・桂川の三川合流地点の南にある男山(おとこやま)山上に社殿はあります。山のふもとからの参拝は2つの方法があり、ひとつは所要時間約3分で麓の「八幡市駅」からケーブルカーで。もうひとつは、山頂標高120m、社殿まで30分ほど山歩きです。地元の方は山上の駐車場を利用する方もいるようです。

【アクセス】京阪男山ケーブル「男山山上駅」からすぐ
【公式ホームページ】http://www.iwashimizu.or.jp/

【高速】京滋バイパス 「久御山・淀IC」が近い

【電車】京阪電車「石清水八幡宮駅」下車、⇒参道ケーブル「八幡宮口駅」~「八幡宮山上駅」下車徒歩5分

石清水八幡宮さんHP アクセスについて

〒614-8588 京都府八幡市八幡高坊30 TEL 075-981-3001 FAX 075-981-9808

 

国宝 石清水八幡宮

石清水八幡宮の歴史

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、地元では「やわたのはちまんさん」と呼ばれ、平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請された神社。京都盆地南西の男山山上に鎮座する。

皇室からは遠国の宇佐神宮に代わり伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに、二所宗廟の1つとして崇敬されるとともに、石清水八幡宮のある男山は都からみて裏鬼門(南西の方角)に位置し、鬼門(北東の方角)に位置する比叡山延暦寺とともに都の守護、国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。

「石清水祭」は大祭として葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の1つに数えられる。

あの門をこえると、社殿の領域になります。

 

武家からは特に源氏が源義家が当社で元服したこともあって武神として信仰し、源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地八幡宮が勧請された。

弓八幡 石清水八幡宮 作者 世阿弥

八幡大菩薩は源氏の氏神弓矢の守護神

弓と矢と幡の三つの兵具に訳して弓八幡と名付けた

 

 

宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。

京・難波間の交通の要地で、南北朝時代の大小様々な戦い、羽柴秀吉と明智光秀の天王山の合戦などで知られる政治上の重要な拠点。

カヤの木

 

『徒然草』の時代から

創建以来、当社は境内の護国寺と一体となる宮寺形式をとった。往時は多くの堂宇が所在し山麓も壮大であり、その様子は山麓の社殿である高良神社を八幡宮と勘違いしたという【徒然草】の話で知られる。

石清水八幡宮HP、Wikipediaより

 

万年青彫刻があると思ったわけ

3大八幡宮である石清水八幡宮は、八幡宮総本社(八幡宮は全国に44,000社!!)の宇佐神宮から勧請された神社です。宇佐神宮は大分県宇佐市の御許山 おもとやま山麓に鎮座し、御許山 おもとやま山頂には、奥宮として3つの巨石を祀る大元神社(おもとじんじゃ)がある。

このように、八幡宮総本社の宇佐神宮は万年青の名と非常に関りが深く、現代の私たちには残っていない万年青の歴史を、神社の建物に刻んでいると思っています。平安前期の1300年ほど前に勧請された石清水八幡宮には、万年青の当時の歴史を残す何かがあると思いました。また、万年青は本当はどんな意味のある植物だったのか、秘められた歴史を紐解いていきたいと思います。

また、中井正純(正清の弟、中井家3代正知の後見)が建てた。中井正清は徳川家康公の大工頭で、中井正清が建てた寺社仏閣には万年青の彫刻があることが多い。

御許山 おもとやま 大分県宇佐市にある神社、宇佐神宮について

寺社仏閣のおもとの彫刻・植えられた万年青 一覧 歴史ある名店も

信長塀 黄金の樋

信長塀の信長とは、織田信長の事です。

天正8年(1580)に織田信長が寄進しました。
瓦と土を幾重も重ねて作られた土塀で、織田信長公が好んで採用した様式といわれています。

瓦と土を幾重にも重ねることにより、当時の築塀における課題であった鉄砲の銃撃や耐火性、耐久力に優れていたとされています。

国宝の社殿を取り囲むように残っています。400年前のものが雨風に耐えてここまで残っているのですね。

 

信長塀。織田信長さんが寄進。

 

 

黄金の樋

八幡造りである御本殿の内殿と外殿の「相の間」に架かる織田信長公寄進の通称「黄金の雨樋」。  天正7(1579)年12月、信長公が雨に遭って山崎寶積寺に逗留の際、木製の雨樋が朽ち雨漏りがしていることを聞き及び修理を命じ、翌、天正8年8月には木製から唐金の雨樋に造り替えられました。これには、もし再び当宮に天災などの有事が起こった際には、この「黄金の雨樋」を換金し、その対処にあたるようにとの信長公の信仰心の深さがあったという伝承があります。
長さ21.7m、幅54cm、深さ21cm。

写真は国宝のため禁止

写真 石清水八幡宮さんのHP 参照

 

鬼門封じ

石清水八幡宮の鬼門封じ、京の鬼門封じ、江戸の鬼門封じ、万年青で鬼門封じ

鬼門封じ

牛の角を持ち、虎の毛皮を身にまとった鬼がくると言われる丑寅(東北)の方角

『鬼門』を封じるために、国宝の御本殿の石垣を斜めに切り取った作りになっています。

ここだけ鬼門封じで切ってあるのがわかる

他の角はきちんとあり、正方形。

角が立つ、ともいい、鬼門の方角の角を取ってある。

万年青では古くから鬼門の方角に万年青を置きなさい、といわれる。万年青は400年以上前から霊草なので、魔除け、開運の意味がある。

京の都を守る比叡山延暦寺が鬼門を守り、この石清水八幡宮が裏鬼門を守るという話があり、この鬼門という考え方はとても面白いです。

古来より、都市をつくる、城をつくる、家をつくる際に鬼門を守るということは言われてきた。徳川家康公と、そのブレーンだった天海が、江戸(東京)も邪気が入るとされる鬼門・北東の方角には寛永寺(上野・東の比叡山を意味する「東叡山」とも呼ばれる)を置き、天海自身が住職を務め、隣には上野東照宮を建立し、鬼門を封じ、同じく邪気の通り道とされる反対側の南西、裏鬼門には増上寺(二代将軍・秀忠)を配し、鬼門を特に大切にしてきたことが分かります。

 

社殿の本殿

 

ご祈祷 凶方位 鬼門、裏鬼門、八方塞がり

今まできちんと見たことがなかったのですが、この厄年も鬼門が関係しているのですね。

 

豊明園と万年青の発展を願って、御祈祷していただきました。

そこで、400年前の万年青の彫刻に出会いました。

こちらの東側から入ります。

万年青の彫刻を探すため、この御本社をぐるぐるまわって探したのですが、外側からでは彫刻自体がありません。この東側と、西側に2つ蟇股の中に彫刻があり、あとは南側の正面に彫刻があるだけです。

国宝の社殿の中に万年青彫刻

国宝 御本社

この中でご祈祷していただきます。

八幡造りという珍しい構造の本殿は国宝に指定されている。厄除け祈願でも知られ、年間を通して多くの参拝者でにぎわう。

正面の彫刻。素晴らしい。

この内側にある舞殿と、御本殿を囲む瑞籬(みずがき)の欄間彫刻に万年青の彫刻が17ありました。もっとあると思います。

現在の社殿は寛永11年(1634)に徳川3代将軍・家光が修造。本殿の一部は豊臣時代に修理されたものもあり、安土桃山時代から江戸時代最初期に造られた。内殿と外殿の前後二棟からなる「八幡(はちまん)造り」の建築様式としては、現存する社殿の中で最大最古。

御本殿から幣殿・舞殿・楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊が囲む社殿の建造物全てが丹漆塗(たんしつぬり 丹漆はあかうるしのこと)で、御本殿を囲む瑞籬(みずがき)の欄間彫刻をはじめ随所に当時の名工の極彩色彫刻が施された極めて壮麗な社殿。

 

外から見える国宝の彫刻。これだけでも素晴らしいですが、内側の彫刻は別格。

是非、昇段参拝が始まったら、中のツアーをやって下さるそうなので、見学に行ってみてください。

 

私が見つけられた万年青彫刻は、舞殿の西側の欄間彫刻に2株、御本殿を囲む瑞籬(みずがき)の欄間彫刻に、西、北、東と時計回りに見学させていただきました。

西側の松椿万年青の欄間に1つ、入内雀の欄間に1つ、北側の松の欄間に1つ、万年青松の欄間に2つ、松椿万年青の欄間に1つ、梅竹万年青の欄間に2つ、万年青椿の欄間に3つ、万年青松の欄間に3つ、東側の椿万年青の欄間に1つありました。

やはり北東の鬼門の方向には万年青の数が多く、この時代から万年青が鬼門封じに使われていたのが分かります。

おもと彫刻は全部で17。日光東照宮の他では一番多い万年青彫刻の数です。また、万年青彫刻の割合も半端なく高い。石清水八幡宮には、152点にも及ぶ色鮮やかな「桃山風透かし彫り」があるといわれ、いかに万年青が大切にされていたかが分かります。

これらの欄間彫刻は、どれも一刀彫で、一枚の板から彫り出してきたものです。

 

 

 

 

 

こちらが東側の回廊。ちょうど、この北東の鬼門の位置、この内側におもと彫刻がたくさんあります。

 

 

 

2016年に国宝に指定。 創建は、貞観元年(859)清和天皇の命により平安京の裏鬼門(南西の方角)を守護する神社として八幡大神を男山に祀り、社殿を建立したのが始まりとされています。京の都、平安京がつくられたのは794年。

 

左甚五郎作と伝わる「目貫の猿」

この左の門の裏に左甚五郎「目貫の猿」

こちらも国宝の中なので写真はありませんが、日光東照宮の「眠り猫」の彫刻で知られる左甚五郎作と伝わる「目貫の猿」が有名です。本殿の西側の門の上にある猿の彫刻で、甚五郎の彫刻はその精巧さから魂が宿り動き出すという伝説があります。左甚五郎一派がこの社殿を建造した際、この猿が社殿を抜け出し、里でいたずらを繰り返したため、右目に細い竹釘を刺して逃げ出さないようにしたそうです。平成の大修造の際、この釘を抜いていた時期になぜか境内に本物のサルが現れ、元に戻したら現れなくなったのだとか。甚五郎伝説は今なお続いています。

こちらは東側ですが、西側の門の裏側に左甚五郎の彫刻があります。

エジソンと石清水八幡宮

電球のフィラメントに、この石清水八幡宮の真竹が最も適していることを知り、電球発明の翌年から10数年もの間、この竹を使ってたくさんの炭素発熱電球を造りました。

まとめ

歴史的にとても重要な石清水八幡宮に、徳川家光公の寄進による、万年青彫刻が発見でき、とてもうれしい。石清水八幡宮関係者の皆様、ありがとうございました。

 

 

中村天風さん

   

こちらにも素晴らしい彫刻が。

左 若宮社 男性の神様

右 若宮殿社 女性の神様

清め衣納所

こちらに奉納します。

鬼門封じのある北側です。

   

ぐるっとまわっています。

写真はありませんが、幣殿の蟇股には4つの巴紋の彫刻が施されていますが、実は1つだけ右巴があります。これは、社殿を完成させてしまうと、あとは朽ちるのを待つことになり、あえて未完成の箇所、間違いの箇所を造ることにより、まだその社殿が未完成であり、益々の発展を遂げるという願いと縁起が込められているとされています。

10棟が1つの建物のように組み合わさる独特の作り。八幡造り、すべて国宝。

 

石清水八幡宮の地植えおもと

石清水八幡宮に、立派な地植え萬年青がありました。

 

 

徳川家の隠し葵 石清水八幡宮さまのHPより

現在の御社殿は寛永8(1631)~寛永11(1634)年にかけて徳川家光公の修造によるもので、そのことから考えると、徳川家の御紋である「葵の御紋」がいたるところに施されていてもよいものですが、見当たりません。 実は、楼門蟇股部分、正面の双鳩(錺金具)の裏側、すなわち参詣者からは見えない位置に、当宮の神紋とともに「葵の御紋」が、錺金具に彫られています。 「さすが徳川将軍家、なんと控えめなことか」と捉えられますが、実は、八幡大神様からは一番良く見える真正面に「葵の御紋」が施されている位置関係になっています。

 

この位置は、久能山東照宮の万年青彫刻と同じ場所にあります。何か縁がありそうですね。

久能山東照宮のおもと

寺社仏閣のおもとの彫刻・植えられた万年青 一覧 歴史ある名店も

京都の万年青彫刻関係

北野天満宮 地主神社 万年青彫刻 京都府

二条城

おもとが植えてあるお寺

京都 瑞巌山 圓光寺(円光寺) | 基本情報 | 苔と新緑、紅葉 | 万年青と徳川家康公 | 円山応挙 奔龍庭 十牛之庭

 

北野天満宮   万年青彫刻 京都府

 

 

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瑞巌山 圓光寺(円光寺)

圓光寺(円光寺)は

京都市左京区一乗寺にある徳川家康公が創立した寺院。息をのむ美しさの苔と紅葉の美しい【十牛之庭】、平成に作庭された枯山水庭園【奔龍庭】【円山応挙筆の「雨竹風竹図屏風」】本堂、水琴窟、十牛之庭に万年青が植えられている。

基本情報

【拝観時間】午前9時~午後5時
【拝観料】大人 \500 高・中 \400 小 \300
〒606-8147 京都市左京区一乗寺小谷町十三番地
TEL 075-781-8025 fax 075-781-8035
(電話受付時間 午前9時~午後5時まで)

【ご案内】
市バス 5系統 一乗寺下り松下車 徒歩10分
叡山電鉄/叡山線 一乗寺下車 徒歩15分
駐車場(30台)有り

季節によって早朝拝観があったり、座禅などもできるようです。

私は駐車場の入り路がわからず、宮本武蔵にゆかりのある八大神社さんの駐車場に停めました。入口の北側(向かって左側に)20台ほど無料の駐車場があるようです

紅葉時期には、7時30分から拝観できる予約制の早朝拝観があるようです。早朝拝観は毎日70名。圓光寺さまへお問い合わせください。

2020.7.22現在作成、詳細は圓光寺さまへお問い合わせください。

 

 

苔むした素晴らしい庭園。

この画像の右へ行くと、宮本武蔵の八大神社、左へいくと曼殊院鷺森神社武田薬品薬草園がある。武田薬品薬草園には伺ったことがあり、その書籍には万年青が最初に薬草として載っている。

 

開基(創立者)は徳川家康公

開基とはお寺を開くこと、出資者のこと。慶長6年(1601)徳川家康は下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。その後、圓光寺には相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667)現在の一乗寺小谷町に移転された。裏山には当山開基の徳川家康公を祀った東照宮(徳川家康公の歯がある)の墓がある。

圓光寺の由来 開基 徳川家康公

 

こんなところにも三つ葉葵?が!!

 

立派な門

右には座禅の案内が

 

 

右手の受付を済ませ、お庭へ

京都の町からは離れ、ゆったりとした時間

 

 

枯山水のお庭

 

奔龍庭 – 枯山水庭園

名の通り、龍が奔る(はしる)躍動感のある平成の枯山水。なだらかな階段を上った後にガラリを雰囲気が変わる。白砂を雲海に、石組を龍や稲妻に見立てたお庭に引き付けられる。石柱はかつて井戸の部材として使われていたもの。

 

 

平成に作られた、アートを感じるお庭

作庭家の名前は判らななかった。もしわかる方、お教えください。

 

奔龍庭を右手に見ながら、右側の瑞雲閣へ、円山応挙さんを見に行きます。

円山応挙筆の「雨竹風竹図屏風」

この圓光寺さんの「十牛之庭」を進むと、応挙竹林と呼ばれる孟宗竹の竹林がある。そこは、円山応挙がよく訪れた竹林で、この竹林を「雨竹風竹図」として描き残した。

禅語にある「清風動脩竹」(せいふうしゅうちくをうごかす:あるがままの姿は美しいが、それに執着しないことこそ素晴らしい)のとおり、風に吹かれ雨に打たれる竹林の情景は、常に変化を続ける人間のあり方そのもの。刻一刻と表情を変える竹林に、禅門の本質をみたのかもしれない。

円山応挙が圓光寺にお礼の印として寄贈された。撮影可能のこの屏風は複製品。

 

 

応挙竹林と呼ばれる孟宗竹の竹林

「十牛之庭」の奥に。

近くに(この写真を撮った人の後ろ側に)徳川家康公の歯があるといわれる、東照宮があります。

 

圓光寺の沿革

 

 

琳派彩還 四季草花図 渡辺章雄

琳派彩還 四季草花図 渡辺章雄

十牛之庭 じゅうぎゅうのにわ

の素晴らしさ、紅葉の素晴らしさ

この美しさに紅葉の時期(11月中旬から12月中旬)にはとてつもない人出になるそうです。

苔好きにはたまらないお庭で、奔龍庭の枯山水からガラリと緑一色になる景色の変化ははっとします。

どこかのブログで読んだ気がしますが、この【十牛之庭】には牛に見立てた石が10配置されており、その石一つ一つが「十牛図」の一つの場面を現しているそう。禅寺らしい、禅問答のようなお庭!?十牛図(じゅうぎゅうず)を庭に落とし込んでいるので、庭もそのように、場面が進むにつれ、ガラリを変わっていく。

 

奔龍庭からの門を抜けると別世界

入口の右下、石の根付に万年青が植わっています。

 

柱と額縁に見立てた、額縁庭園とも呼ばれる。

 

 

十牛之庭 名前の由来

牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして近世初期に造られた池泉回遊式庭園。庭園南側には洛北最古の泉水、栖龍池があり、先人たちはここからの眺めを絶景として褒め称えたという。

十牛図に描かれた牛とは、人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしている。牧童が禅の悟りにいたるまでの道程であり、懸命に探し求めていた悟りは自らのなかにあったという物語だ。修行道場としてこれまで多くの雲水((雲がどことさだめなく行き水が流れてやまないように)諸国を修行して歩く僧。行脚(あんぎゃ)僧。)たちが参禅の日々を過ごした圓光寺。

作庭者がわかりませんでした。誰かわかる方がいらっしゃったらお教えください。

  1. 尋牛 – 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、分別の世界に陥って仏性から遠ざかる
  2. 見跡 – 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない
  3. 見牛 – 行においてその牛を身上に実地に見た境位
  4. 得牛 – 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます
  5. 牧牛 – 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる
  6. 騎牛帰家 – 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない
  7. 忘牛存人 – 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる
  8. 人牛倶忘 – 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界
  9. 返本還源 – 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る
  10. 入鄽垂手 – 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある

十牛図 Wikipediaより

 

最初の牛の石なのか、最後の牛の石なのか

万年青が根付に使われている。

  1. 牛は見つからないという状況。なのか、10。入鄽垂手 – 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要があるというものなのか。

 

万年青にも何か意味があると思ってしまう

家康公に関係するのか、悟りの庭に関係するのか。

 

右側が本堂

赤いじゅうたんの中の部屋に、10の牛の書かれた、丸い10枚の絵があります。

 

 

庭が静か

圓光寺 【十牛之庭】におもと

本殿の前におもと

 

 

群生している。

木の下にある日陰の方が葉の色がよい。

万年青。

 

水琴窟の裏におもと。

 

十牛之庭におもと

洛北で最も古いといわれる栖龍池(せいりゅうち)と水琴窟

 

洛北で最も古いといわれる栖龍池(せいりゅうち)

 

 

水琴窟。

今までで一番音が清らかだったように思います。この水琴窟だけでも足を運ぶ価値あり、のお庭です。

 

東照宮 – 徳川家康の歯を埋めたとされる。

ここからの洛北地域の展望は良い。

山の上に東照宮があります。

圓光寺からの京都の眺め

遠く嵐山まで見ることができる

庭の素晴らしさに忘れていましたが、なだらかな山になっています。

 

日本の初期の活字本の一つ「伏見版、圓光寺版」の印刷事業

圓光寺版といわれる出版物があるように、日本の印刷の歴史にとって画期的なもの。家康から木活字を下賜され、『孔子家語【こうしけご】』『三略【さんりやく】』『貞観政要【じようがんせいよう】』等の漢籍の出版を行った。これらの書物は、現在「伏見版・圓光寺版」として知られる。
伏見版書籍の印刷に用いられた活字を主体として、一部補刻の活字等を交えて、五二〇〇〇個余が重要文化財になっている。

伏見版(ふしみばん)とは、江戸時代初頭に、徳川家康の命により、山城伏見の伏見学校の一角に建立された円光寺(現在地は、京都市左京区一乗寺)において開版された木活字版のことである。円光寺版ともいう。

伏見学校は、足利学校第9世の三要元佶を招請して創建したものである。

元佶が出版した書籍は、1599年の『孔子家語』、『六韜』、『三略』が最初である。

1600年には、西笑承兌により、『貞観政要』が出版されている。

1605年には、やはり西笑承兌により、『吾妻鏡』と『周易』が出版されている。

1606年には、元佶によって、武経七書が開版された。この間に刊行された書籍は、8部80冊である。

1612年の、開山である元佶の没後、臨済宗に属する円光寺は、相国寺の境内に移り、その後、寛文年間(1661年 – 1673年)には、愛宕郡修学院村(現在地)に移転している。

「円光寺由緒書」によると、伏見版に使用された木活字は家康から拝領したものとされる。1815年に皆川允が亡父の遺稿集(『淇園文集』)などを出版した折に、活字を拝借し不足を補ったことから新旧二種の活字が現存している。

wikiより

本堂の前の水琴窟

 

閑室元佶

圓光寺を開山した方。

世界大百科事典 第2版の解説

1548‐1612(天文17‐慶長17)
近世初期の臨済宗の僧。号は三要。肥前小城郡晴気村の出身。はじめ金庭菊についてその法をつぎ,のち南禅寺で学殖を深め,やがて下野(しもつけ)に下って足利学校の校主となり,徳川家康の知遇をえて退廃した学校を整備中興した。家康は畿内を制すると,元佶のため伏見に円光寺を建て儒仏の典籍や活字を寄せて古書の出版に当たらせた。これが世にいう円光寺版(伏見版)であって,元佶が近世文教の復興に果たした役割は大きい。その後も元佶は家康に重用され,金地院崇伝とともに,幕府の寺社行政,外交文書の作成,海外渡航朱印のことなどをつかさどり,初期幕政の枢機に列した。

 

京都左京区一乗寺 近隣の寺社仏閣

  • 詩仙堂  万年青植えられていました。
  • 狸谷山不動院
  • 八大神社
  • 鷺森神社
  • 曼殊院

 

寺社仏閣のおもとの彫刻・植えられた万年青 一覧

 

江戸時代の幕府薬草園に万年青  |  尾張藩御深井御薬園とおもと  |  月刊誌・趣味の山野草掲載 栃の葉書房

万年青は縁起物の前に、薬草だった

江戸時代、徳川家康公が江戸城に3鉢のおもとを抱えて入城したという故事の以前に、おもとには縁起物としての価値だけでなく、薬用植物としても大切にしていました。日本最古の小石川薬草園(小石川植物園・東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園)や同時代の尾張藩御深井(おふけ)御薬園など名だたる名薬草園におもとは薬草として大切に育てられていました。

今回、江戸時代の尾張藩御深井御薬園の地図をみながら、江戸の薬草とおもとというテーマで見ていきたいと思います。

江戸時代の尾張藩御深井御薬園の地図

様々な薬用植物が、絵と名前入りで描かれています。

 

右上の池の部分を反転して、拡大したのが下の画像

 

御深井御薬園は1600年代に作られた、日本最古ともいわれる薬草園で、元は花壇や果樹園を兼ねた形態だったのが、庭園形式の薬草園へと発展し、御深井御薬園となっています。

この薬草園は、名古屋城の北部・現在の名城公園一帯に存在した大庭園である下御深井(したおふけ)御庭の一部としてつくられ、尾張徳川家御庭焼の御深井焼(おふけやき)、御花畑・御犬部屋・御鷹匠部屋などとともに、尾張徳川家当主の私的な遊興空間・儀礼空間でした。そのため立ち入りは制限され、当時、一般には知られることのない秘園でした。

 

尾張藩御深井御薬園 おもと(藜蘆) 発見!

薬草園の地図を見ていただくと、すべての植物に非常に詳細な絵と名前が書いてあるのがわかると思います。おもと(藜蘆)がのっている場所を下の写真に拡大してあり、尾張藩主が臨場の際に小休所としても使われた御薬苑堂薬園方の役宅の東側、御スアマ(蓮池)の北側にあります。この地図には南北43間、東西87間と書かれているので、南北には約33メートル、東西に8メートル植えられていたと推測しています。おもとの区画の中にはリンドウやカキドオシ、スミレ、五味子などがあります。他の薬草園の絵図でも枠と文字だけで植物が書かれているものが多い中、見ていても面白くわかりやすい資料でした。

真ん中の池の9時から2時の方向(池の左側と上側)

池の左上におもと(藜蘆)と書かれています

 

小石川御薬園奉行 「御薬草木取扱方書付」

また違った角度からおもとをみてみますと、小石川御薬園奉行である岡田左門、芥川小野寺(家康以来累代の園芸家)の書き付けた「御薬草木取扱方書付」からおもとの項を拾って

藜蘆

是者根物にて九月節に至り植付申候 土地者日当り候 処冝敷土拵方は諸作同様にてうない壱尺五寸作立深サ三寸位四寸間に下タ肥シ同断にて植付申候 翌年芽出し壱年に都合三度薄肥しかけ草取捨三四度作切申候

製し方之儀は九月節に至り根堀起実入冝敷ヲ薬ニ取り水にて土ヲ洗落し日乾仕候』

旧暦の九月節なので、新暦の9月20日~10月20日頃でしょうか。秋の植えかえとぴったり一致するのが驚きました。

他にも、駒場御薬園、浜離宮の浜庭薬園、京都御薬園、熊本藩薬園、福岡藩薬園、奈良の森野薬園にも薬草としてのおもとが文献に現れてきます。

当時の医療である漢方、和方のことを考えると、今のように西洋医学のない時代、なくてはならないもので、幕府、藩ともに江戸初期に力を入れて薬草園をつくったのがわかります。

これからおもとの歴史、特に古くからの歴史を紐解いていくときに、薬草としてのおもとをみていけば、おもとがなぜ縁起物として喜ばれるのか、日本の文化として大事にされてきたのかもわかってくる気がします。

 

参考文献

尾張藩御深井御薬園絵図

増補改訂 日本薬園史の研究

昭和5年 著者 上田三平

序に小石川植物園が東京大学附属となった2代目園長二代目三好学(1922年)の名も紹介される

栃の葉書房・趣味の山野草月刊誌に掲載

この文章と写真は、栃の葉書房・趣味の山野草月刊誌に掲載されたものを加筆修正してアップしています。

 

 

次の記事 薬草、和漢方としての万年青 薬効

薬草、和漢方としての万年青 薬効 藜蘆は万年青? レイロ リロ

薬草のおもと 徳川吉宗将軍の忍者の薬草地図

おもとは薬草 武田薬品 京都薬用植物園とおもと

引越し万年青と家康 万年青彫刻

万年青の自生地は?日本、中国、朝鮮半島、台湾に自生しています。

 

浅間神社 おもと彫刻 静岡県  浅間神社と徳川家康公との関係

静岡浅間神社(通称おせんげんさま)

賤機山のに鎮座する神社は神部神社(約2100年前)。浅間神社(延喜元年(901))・大歳御祖神社(応神天皇4年(273)今から1700年ほど前)・の三本社麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社の四境内社寛永・文化年間両度の大造営が行われた。ことに文化元年(1804年)から60年余の歳月と、当時の金額で十万両の巨費を投じて建築された。
静岡市葵区宮ヶ﨑町102番地1
今回は上野東照宮の資料の中に浅間神社と記載された字が目に付き伺いました。2016/6/19

舞殿と大拝殿(重要文化財)

切妻造りの初重に入母屋造りの楼を重ねた外観をもつ二重の建物(浅間造り)と称される。拝殿にてお参りし、権禰宜宇佐美様のご案内でおもとの彫刻を特別に拝見することができました。

神部神社・浅間神社 『力士・天女』

『力士・天女』文化度における御造営に彫刻を担当したのは信州諏訪に本拠を置き、中部地方に彫刻を残している立川流一門である、御造営彫刻師 初代立川和四郎親子三代や弟子一門が携わり、その功により立川和四郎は幕府より内匠の号を賜っている。寛永より当社の造営に尽力した職人は、木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、駿河指物・駿河漆器など静岡市の特産工業へと発展した。また模型はその後プラモデル産業へと発展し、静岡は全国一のプラモデル産地となっている。

神部神社・浅間神社本殿

浅間神社と徳川家康公との関係

徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬した。 まず1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。そして1582年(天正10年)、三河遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞(賤機山城)を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。さらに家康が大御所として駿府在城時の1607年(慶長12年)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽(現、静岡県指定無形民俗文化財・4月5日奉奏)を奉納した。 Wikiより

再度社殿を建造したのは、武田氏を攻略した1582年以降のことか。

 

神部神社・浅間神社本殿

浅間神社に孔雀と万年青の彫刻

浅間神社に孔雀と万年青

 

万年青の彫刻

実は絵として描かれているのか

豪華絢爛、金の覆輪の万年青ですね。

 

おもとの彫刻 一覧

三峰神社 おもと彫刻  埼玉県

江戸のおもと彫刻

三峰神社

三峰神社の名は、神社の東方にそびえる雲取山、白岩山、妙法嶽の三つの峰が
美しく連なることから呼ばれます。景行天皇の時代に創られたと伝わる、由緒ある神社。
三峰山の信仰が広まった鎌倉期に畠山重忠・新田義興等がまた、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝になっています。

徳川家との関わりの深さをおもとの彫刻が証明しています。
貴重な写真を岩田氏に貸していただきました。

素晴らしいおもとと実

たわわに実った赤い実、緑の葉、久能山東照宮、日光東照宮でもそうでしたが、
蛙股の中におもとが彫刻されています。

さらにアップで、よくみると黄色い実も!
おもとは緑と青で描かれ、覆輪があり、金色に輝いています。

三河のおもと大会では、実生をされる会員さんも多いこともあり、実付きの部がありますが、これからはもっと実付きの美しさを広めていきたいです。

江戸時代に造られたおもとの彫刻で、素晴らしい美しさですね。I氏は宮司さんにこの彫刻の復刻塗り氏を紹介してもらい、万年青の彫刻について聞かれたそうです。

三峰神社のHP
http://www.mitsuminejinja.or.jp/index.htm

おもとの彫刻 一覧

北野天満宮   万年青彫刻 京都府

京都 おもと彫刻

梅と牛で有名な北野天満宮におもとの彫刻があると聞いてとんでいきました。北野天満宮におもとの彫刻がありました。

寺社仏閣の万年青の彫刻

京都 北野天満宮
今出川通りの鳥居、ここから、梅と牛とおもとの彫刻で有名な北野天満宮に
京都 北野天満宮 牛
京都 北野天満宮 三光門 <重要文化財>
後西天皇御宸筆『天満宮』の勅額を掲げてある。 豊富な彫刻の中に日月星があるから三光門の名がある。*中門[重要文化財]

社殿 <国宝>

参拝客、修学旅行生、海外からの参拝者と、常に人が絶えない国宝の社殿。  
京都 北野天満宮 国宝 楽の間 おもとの彫刻
拝殿の東西にある楽の間(がく の ま)は、豊臣秀頼が1607年(慶長12年)に造営したもので、国宝に指定されています。先ほどの社殿の左から入った場所にあります。
国宝の社殿・楽の間におもとの彫刻があることは、建築史にも、おもとの歴史にも重要な意味があります。やはり、蟇股の中にあり、1600年代初期の建築の中にあります。ほれぼれするおもと。
京都 北野天満宮 おもとの彫刻 
京都 北野天満宮 国宝 楽の間 おもとの彫刻
京都 北野天満宮2012年6月2日
天神祭(てんじんまつり、てんじんさい)は、全国の天満宮(天神社)で催される祭り祭神菅原道真命日にちなんだ縁日。25日。
ちょうど、24日にいったので、その準備をしていました。
 <茅の輪(ちのわ)>
多くの神社では、境内に、大きな茅の輪が飾られる その茅の輪をくぐると、無病息災・悪厄退散になるといわれるその準備
この時の神職の方におもとや、江戸時代の信仰。縄文時代のことなどを伺いました。
京都のおもと
妙音弁財天 境内のおもと 大切にしてありました
妙音弁財天は、京都 出町柳 鴨川すぐそば
京都 北野天満宮 前のバス停にあるお好み焼やさん。
100円で美味しいお好み焼きが頂ける。友人と何個も平らげた、30年?近くやっているおばちゃんが美味しいものをごちそうしてくれる。
 京都 東大路通より一つ入る。ぎっしり実の付いたおもと
今日は、関東 多摩から多くのお客様がおいでになりました。皆さん、とてもよいおもと観をもっていて、折り熨斗や、笑福獅子、麟光冠、金鯱、九頭竜など、独特のおもとをもとめておられました。素晴らしい指導者に恵まれ、本当に楽しそうにおもとを楽しんでおられます。
誰ももっていないおもと、江戸時代のおもとなど、
切り口次第でどうでにも面白くできるおもと。
素晴らしいおもとをどんどん発掘していきます!
2012年6月30日

お能の浮世絵 見立鉢木 室町時代に万年青の鉢植えがあった証拠か

2017/08/06作成
イメージ 1
京都 仙洞御所
 
 

徳川家康が平和な世の中が
永く続くよう願って
江戸城入城の際
一番最初におもと三鉢を抱えて
入城したという故事にもあるように
おもとは開運、魔除けの縁起物です
 
 
 
皆さん、
見立鉢木 という浮世絵を知っていますか?
お能に 鉢木 という演目があり
廻国の僧侶に身をやつした
前執権北条時頼のために、大切な鉢植えの松を薪に
という浮世絵があります。
後ろに赤い実をたたえたおもとが2株ほど、株立ちではっきりと描かれています。
この浮世絵は室町時代に鉢植えがあった証拠か、ともいわれています。
鈴木春信 が書いたものです。
個人蔵なので写真アップはできません。
ネット上にはあるかもしれません。
鈴木 春信(すずき はるのぶ、享保10年〈1725年〉 ?- 明和7年6月15日1770年7月7日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。細身で可憐、繊細な表情の美人画で人気を博し、今日浮世絵というとまず思い浮かべる木版多色刷りの錦絵誕生に決定的な役割を果たし、後の浮世絵の発展に多大な影響を及ぼした。
 
 
女の後ろにおもと せっちんおもとか?女性の細い腕に鎌が握り締められている。これは廻国の僧侶に身をやつした前執権北条時頼のために大切にしていた松、梅、桜の植木を伐って薪にしようとする謡曲『鉢木』からの見立て絵 背後に赤い実をつけたおもと。鉢木は能の演目として室町時代に成立したと考えられ、これを根拠に江戸時代以前から植木鉢が普及しているとみなす説もある
 
 
室町時代
1336年 – 1573年
 
いけばなの成立、そのときにおもとの記述があることや、
節用集という室町時代の辞書にをもと、
おもと、りろ、れいろと載ってきます。
室町時代の日記にも、おもとは生けて楽しんだと
出てきます。
 
 
 
 

おもと
徳川家康公が江戸城入城のさい、
万年の繁栄を願って
三鉢のおもとを抱えて入城した
という故事が有名
おもとは万年青と書き、
常緑で万年、栄えていくことから
600年前の室町時代から縁起物
天福の霊草、吉兆の植物として喜ばれてきた

おもとの豊明園
家康公とおもとのふるさと 岡崎