引越しおもと・天福の霊草

『天福の霊草、引越しおもと』の由来

 

慶弔十一年、徳川家康公が江戸に移られるのに先だって、その居城の新築を祝して、三河の国長沢村の長嶋長兵衛という故事に倣って三種のオモトを「天福の霊草」として献上されました。家康公はこれをたいそう喜ばれて、千代田城に真っ先に持ち込まれ床の間に飾り入城したと伝えられています。
その後、家康家が安泰であったことから、陰陽道で建築、転居に「吉」であるといわれる「天福日」に「天福の霊草」として万年青が用いられる風習が、大名、旗本など武家をはじめ全国の町民の間まで広がり、現在もその名残りをとどめています。
(天福とは天から賜る幸い、天与の幸福、祝事、建築、転居に「吉」であるという)

約400年前からのおもとの彫刻について

江戸時代の神社にも、おもとの彫刻があります。その土地の平安や繁栄を祈ったのでしょうか
おもとの彫刻 
栃木県 日光東照宮 
埼玉県 妻沼聖天山歓喜院  徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建された
埼玉県 三峰神社
東京都 上野東照宮 慶安4年(1651年)家康の孫である徳川家光が改築したもの
静岡県 久能山東照宮    1617年元和3年)徳川家康の命で建立 家康がなく  なったとき最初に建てられた
愛知県  六所神社1636年徳川家光の命で建立 徳川家康がお宮参りをした

 

京都府 北野天満宮  慶長12年(1607年)に建立
 平岡八幡宮 江戸時代末期に画工・綾戸鐘次郎藤原之信 花の天井画
福岡県 英彦山神宮 元和2年(1616年) – 細川忠興による再建

日光東照宮 万年青彫刻 栃木県

世界遺産 日光東照宮 

徳川家康公が祀られている日光東照宮を尋ねる。おもと彫刻の取材
引越しおもとの由来に基づき、日光東照宮におもとの彫刻が
旧社務所(現在は美術館)この奥に現在の社務所があります。2013年7月

おもと彫刻 

おもとを蛙股の中に描かれています

世界遺産 日光東照宮 

 徳川家康公が祀られている日光東照宮を尋ねる。おもと彫刻の取材、引越しおもとの由来に基づき、日光東照宮におもとの彫刻が沢山あります。
おもと彫刻   竹・梅・萬年青
おもと彫刻を見ると実が付いている彫刻が多いです。昔は実付きおもとを大事にしていたことが分かります。

世界遺産 日光東照宮 引越しおもとの由来に基づき、陽明門 におもとの彫刻が

陽明門
おもとの彫刻
陽明門
おもとの彫刻 日光東照宮にはおもとの彫刻が31あります。
柱の左に万年青 金の覆輪にたわわな実
金の覆輪に万年青の実
万年青 歴史彫刻

英彦山神宮 万年青彫刻 福岡県

おもとは万年青と書き、万年の繁栄を現す

江戸時代を始めるにあたり、徳川家康公が万年青3鉢をその身にたずさえ、最初に江戸城に入城し、床の間に飾り繁栄を祈願した

おもとの花言葉
厳しい冬でも常緑なことから
「永遠の繁栄 「長寿
心をこめた贈り物に最適のおもと

英彦山神宮(ひこさんじんぐう)
九州、福岡県田川郡添田町の英彦山にある神宮にいってきました、霧がでて、神々しい雰囲気です

奉幣殿

英彦山神宮(ひこさんじんぐう) 日子山神社 400年前(1616年)の万年青彫刻
福岡 英彦山神宮  元和2年(1616年) – 細川忠興による再建 入母屋造り、こけら葺き
伊勢神宮の天照大神の御子(日の御子)から日子山神宮と言われていた。819年、嵯峨天皇が日子山を「彦山」に改めたとされる。
万年青が正面にある神社は珍しい 国指定の重要文化財にもなっている古来よりの霊山です。

 
拝殿正面に、素晴らしいおもとの彫刻があります。
堂々とした葉姿に、赤い実が美しいですね。

堂々とした400年前、江戸最初期の万年青彫刻
この奉幣殿は久能山東照宮より1年前の建立
いくつか虫食いが見られる それもまた自然の姿

宮司さん曰く、常に変わらぬ「青葉」で永遠に続くと云う意味相だそうです、わざと虫に食われた葉を再現しています。古来より伝わる英彦山神宮のように、おもとの彫刻のある寺社仏閣が全国にあると思います。それぞれ、永遠に続く青葉だったり、土地を治める、といったことからおもとを彫ってあります。もしお近くにおもとの彫刻のある寺社仏閣ございましたら、是非ともご連絡ください。おもとのより深い歴史が分かってくるはずです。

万年青の万年、青々としている姿が、
この英彦山神宮の精神を現している

上宮への鳥居

登山コースにもなっていまして、装備のしっかりしたひとが上がっていく姿も、職員さんがいうには、8月には石段を駆け上がって登るイベントもあるとか
ケーブルカー
英彦山神宮の奉幣殿までは石段を登るか、このケーブルカーでいけます。ここまで車で来れるので、登山や石段はちょっと、、という人も大丈夫です。
英彦山神宮 案内図
境内のおもと
昨年少し崩れたようですが、また新しく芽吹いてきました。
英彦山神宮 日子山神宮 400年前(1616年)の万年青彫刻
九州、福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社
江戸時代には42万世帯の檀家をもち、古くから修験道の山として栄えています。
登山としても多くの方がきていました。また車でもケーブルカーで写真の奉幣殿までほぼ石段を登らずにいけます。20段ほど、1-2分で着けます。
パワースポットと言われているそうですが、山全体が神聖な空気に包まれ、心があらわれるようです。
この町が田川郡といいますが、元々、鷹の羽という里の名前が変化したそうで、天照大神の子が鷹の姿でこの山に降り立ったことから、奉幣殿でも鷹を祀ってあります。

六所神社 万年青彫刻 愛知県

おもとは万年青と書き、万年の繁栄を現す

江戸時代を始めるにあたり、徳川家康公が万年青3鉢をその身にたずさえ、最初に江戸城に入城し、床の間に飾り繁栄を祈願した

徳川家康がお宮参りをした 

岡崎・六所神社にも、おもとの彫刻がありました。 三代将軍家光が社殿を再建しました。六所神社 安産の神様として祈願をする人が多いです。 

愛知県岡崎市明大寺町耳取44   豊明園から車で15分の場所

楼門  重要文化財 貞享5年(1688年)
松平氏(徳川)発祥の地松平郷の六所神社より祭神の勧請を受けて創建したものです。徳川家康の産十神として江戸幕府の厚い保護を受けました。石段は家康の命日にちなんで17段で作られています。昔は五万石以上の大名しかこの石段より上に上がれなかったそうです。

楼門 重要文化財
貞享5年(1688年)楼門は4大将軍家綱が寄進したものといわれています。

三代将軍家光公の御真筆の『六所大明神』御額

松平氏が三河入国以来、代々崇敬厚く天文11年(1542)12月26日岡崎城にて竹千代君(徳川家康公)ご誕生の折には産土神としてご拝礼になった。
拝殿 重要文化財
寛永11年(1634年)三代将軍家光公が再建したものです。
寛永11年から13年(1634~36)にかけて、御普請奉行本多伊勢守と神主大竹大膳久次により社殿および神供所をご造営されました。この時に本殿、幣殿、拝殿を連結し華麗な彩色を施した権現造の社殿が完成。彫刻や色彩が華やかです。
幣殿
幣殿の中央右上に彫物のおもと
金覆輪のおもとに赤い実を付けている万年青彫刻。すこし葉が波うっています。

神供所 重要文化財
寛永11年(1634年)

神供所 重要文化財 右から2番目の位置に蛙股の中に2株のおもとが彫られていました。
万年青の歴史

平岡八幡宮 花の天井におもと

京都・平岡八幡宮 花の天井におもと

引越しおもと、お祝いおもとの由来

京都の平岡八幡宮におもとの歴史を探しにいってきました。

この手前には初代若乃花が土俵入りをした土俵があります。

京都の梅ヶ畑にあるので、梅ヶ畑八幡とも呼ばれています。

京都の中心、御所から車で30分、北西方向へ行った場所です。

かわらけ投げや秋の紅葉で有名な神護寺、鳥獣戯画で有名な高山寺がこの平岡八幡宮の奥にあります。近くには瀬戸内寂聴さんのお寺もあります。宮司の佐々木さんの話では、昔はこの平岡八幡宮まで神護寺の土地だったそうです。

歌舞伎の『花舞台霞の猿曳(はなぶたいかすみのさるひき)』(靭猿(うつぼざる))の舞台背景になったそうです。

 

創建 平安時代 809年12月10日

弘法大師空海(くうかい)が高雄山神護寺(じんごじ)の守護神として自らが描いた僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)を御神体として 宇佐八幡(うさはちまん)より勧請し、創建されたそうです。

八幡宮に祀られているのは、応神天皇(おうじんてんのう 第15代天皇)で全国にあります。

京都(山城国やましろのくに・現在の京都府南部)で最古といわれるのがこの平岡八幡宮です。

室町時代には、室町幕府第三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)や四代将軍・義持(よしもち)も紅葉狩りなどでよく訪れたそうです。

 

平岡八幡宮 花の天井におもと

  本殿は室町時代に焼失したが、足利義満により再建され、現建物は文政9年の修復。内陣天井は極彩色の花絵44面が描かれ、「花の天井」とよばれ、毎年、春、秋の2期公開され、境内は高雄もみじの参道と椿が有名です。

 

平岡八幡宮の神殿に花の天井はあります。

神殿内は写真禁止なので、入り口にあるこれを写真に収めました。

佐々木宮司のお話では、室町時代に再建した第三代将軍足利義満の大切にしていた薬が描かれていて、この地域が薬の産地でもあったことから桔梗、甘草かんぞう、万年青、芥子けしなどが描かれています。桜や椿、梅、山桜、楓、菖蒲など見ても美しいものばかり。

花の天井の種類

花の天井は江戸時代の末期(文政10年 1827)に再建時、綾戸鐘次郎藤原之信という画工が描いたそうです。もうすぐ200年ですね。

 

たくさんの実をたたえたすっきりとしたおもと。

室町時代の生け花や、貴族の執事の日記、当時の辞書にも万年青はでてきますが、将軍である足利義満も薬として大切にしていたことがわかりました。

足利義満公の御所(室町第)が花の御所※と呼ばれ、自らも花を愛し、薬を大切にした義満公らしい天井絵。

 

※花の御所 wikiより

花の御所(はなのごしょ)は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称(地図)であり、敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一南北二町を占めた[2]京都御所地図)がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角に位置した[3]

 

ますます万年青の魅力、どれだけ昔の人たちに大切にされてきたのかを調べていきたいと思います。

引越しおもと、お祝いおもととして縁起を担がれるおもと

このように、おもとは歴代の天皇や室町時代、江戸時代の将軍にも大切にされてきました。古くはこの平岡八幡宮のように、美しさだけでなく、薬として大切にされ、それが転じて魔除けとして、引越しやお祝いに相手の無事平安を祈っておもとが贈られるようになりました。

 

引越しおもと、お祝いおもと

贈り物に最適なおもと

 

 

おもとの豊明園

 

福包を作った、松平(大河内)伊豆守信古 間部下総守詮勝の次男 

福包 (ふくづつみ)

 

松平(大河内)伊豆守信古 間部下総守詮勝の次男

 

三河吉田(豊橋)7万石の藩主だった、松平(大河内)伊豆守信古は万年青を肌身離さず愛玩し、とても大切にしたという記録が残っています。また、万年青の実生を作ったことでも有名な人で、実生家、ブリーダーとしての大先輩です。

安政年間に「鍬形」というオモトの実を蒔いて、「福包」を得られ、、

 

豊明園

栗元瀬兵衛鯤 万年青の歴史より

 

栗元瀬兵衛鯤 万年青の歴史より

萬年青図譜の序文を執筆した人

始め幕府の医官 後に士籍に列して箱館奉行、軍艦奉行、外国奉行、勘定奉行へ累進し、歴任され、明治維新後は郵便報知新聞の主筆を務める 萬年青図譜の序文を執筆

 

豊明園

徳川11代将軍家斉公 万年青を楽しんだ将軍 万年青の歴史より

 

おもと永島(ながしま)

徳川11代将軍家斉公は万年青を楽しんだ将軍、また園芸を楽しんだ将軍として知られています。

「栗元小おもと」という小型のオモトを文化の末(1818) 巣鴨辺りの旗下士の家の永島の子より変生したるを請い得たる

また、その実弟 田安家三代 徳川三卿もおもとを楽しみました。

豊明園

江戸の大名のおもと 間部下総守詮勝「根岸の松」

江戸おもと

間部下総守詮勝は、越前鯖江4万石藩主、間部家8代目になります。

根岸の松 (ねぎしのまつ)

篠常五郎が「増訂万年青図譜」の中の「若松」という万年青の説明で、「安政(1854-60)年間、根岸の松と共に同一の種より産出せり。当時、閣老として重望を負える」間部総州候の最愛する所となれり。、、この種に触れ賞玩することただならず、「根岸松」と共に切に要望せられたとも、この二品は空前絶後の神品にして更に替品なく、、、

とあり、「若松」、「根岸の松」をともに切望されたことが記されています。現在も品種として残っている「根岸の松」が多くの明治の名鑑に横綱の位置に現れているのも、大名がこの「根岸の松」を愛したからにほかなりません。

現在の私たちも4万石の大名が楽しんだ根岸の松と同じものを楽しめる、ロマンがありますね。どれだけ大切に育てられていたことでしょう。

 

萬年青の歴史より

豊明園