万年青の彫刻を探す天才としても有名な出雲の青木氏が、万年青とレイロ、リロについて一つの考えをまとめてくれました。レイロ、リロには、なぜ万年青の別名にそんなものを当てるのか、違うものではないのか、同じものではないのか、とある種、論争のようなものがあったので、一つの参考にしてください。2024.7.31ラインにて 原文のままこちらへ転載いたします。
●青木氏が調べていただいた、【東京大学総合研究博物館データベースより】
【本草図譜 日本では、明治時代まで、薬草を含め薬になる天然自然の産物を研究する学問を「本草学」といった。本草学の研究は広範囲であった。病気の見立て、薬の調合から実際に野外で薬草を探す採薬まで、薬にかかわる様々な研究が含まれていた。 日本において、江戸時代初期の本草学は明の李時珍の『本草綱目』を中心とした文献学・解釈学であった。日本の薬用植物を中国の本草書に記載された薬草に当てようとしたのである。日中の植物相には大きな相違があるとは考えなかった。 上野益三(1986年、京都大学名誉教授・動物学)の説によると、宝永五年(1708 年)に完成した貝原益軒の『大和本草』をもって、日本でも自らが植物を観察研究する時代に入った。益軒以後、多くの本草学者が、山中を巡りあるき薬効のある植物を発見することや今日の民俗植物学的資料の収集に努めた。 岩崎灌園の『本草図譜』は日本で最初の植物図鑑ということができる。植物を主体とし、その他に岩石や動物などを若干含んでいる。最初の数巻は版刻され出版されたが、ほとんどの巻は筆写され頒布されたため、現存する諸本には、出来不出来がみられる。東京大学理学部附属小石川植物園には、小石川植物園の名の入った用箋に描かれた、大変出来のよい筆写本は保管されている。この図譜では個々の植物画は必ずしも精密に描かれているとはいえないが、それぞれの植物の特徴を実によくとらえていて見事である。】原文ママ
【東京大学の文章中の以下の部分
日本の薬用植物を中国の本草書に記載された薬草に当てようとしたのである。日中の植物相には大きな相違があるとは考えなかった。
さらに以下の部分
宝永五年(1708 年)に完成した貝原益軒の『大和本草』をもって、日本でも自らが植物を観察研究する時代に入った。益軒以後、多くの本草学者が、山中を巡りあるき薬効のある植物を発見することや今日の民俗植物学的資料の収集に努めた。
この2点がレイロは万年青なのかシュロソウなのかの境界線ではないでしょうか?】原文ママ
【国会図書館等のわずかな資料と図書館で調べてきたことを私見を交えまとめてみた。 平安時代の丹波康頼の本草和名鈔と和名本草の藜蘆にはヲモトクサ、於毛止久佐の記載がある。於毛止久佐は万年青で間違いないだろう。 本草学が未熟な時代のため漢方の藜蘆に万年青をあてていた。 ヤマワウバラ、シシノクビノキは木であり草ではないため誤って藜蘆にあてていたと思われる。 すでに平安時代には万年青を薬草として認識していた。 これらのことから平安時代の延喜式典薬寮に記載のある藜蘆は万年青と思われる。 室町時代における、日本の辞典、イエズス会の辞典、池坊、桑山小粒丸の藜蘆はみな万年青であろう。(薬と関係ない池坊は江戸時代も藜蘆は万年青のままなのでは?) 1700年代から日本の本草学が発展し、漢方の藜蘆は万年青ではなくシュロソウの類いと分かった。そのためこの時代の本草書には藜蘆は万年青ではないと記載してある。 恐らく藜蘆に限らずほかの漢方名にある植物も間違いがあるのだろう。 万年青藜蘆など和の藜蘆として薬品名を漢方の藜蘆と区別したのではないか。(万年青の漢方名は万年青根ではないか?) 藜蘆は万年青?シュロソウ? 結論として 1700年代までの藜蘆は万年青。 1700年代以降は漢方名としての藜蘆はシュロソウの類いである。】原文ママ