浅間神社 おもと彫刻 静岡県  浅間神社と徳川家康公との関係

静岡浅間神社(通称おせんげんさま)

賤機山のに鎮座する神社は神部神社(約2100年前)。浅間神社(延喜元年(901))・大歳御祖神社(応神天皇4年(273)今から1700年ほど前)・の三本社麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社の四境内社寛永・文化年間両度の大造営が行われた。ことに文化元年(1804年)から60年余の歳月と、当時の金額で十万両の巨費を投じて建築された。
静岡市葵区宮ヶ﨑町102番地1
今回は上野東照宮の資料の中に浅間神社と記載された字が目に付き伺いました。2016/6/19

舞殿と大拝殿(重要文化財)

切妻造りの初重に入母屋造りの楼を重ねた外観をもつ二重の建物(浅間造り)と称される。拝殿にてお参りし、権禰宜宇佐美様のご案内でおもとの彫刻を特別に拝見することができました。

神部神社・浅間神社 『力士・天女』

『力士・天女』文化度における御造営に彫刻を担当したのは信州諏訪に本拠を置き、中部地方に彫刻を残している立川流一門である、御造営彫刻師 初代立川和四郎親子三代や弟子一門が携わり、その功により立川和四郎は幕府より内匠の号を賜っている。寛永より当社の造営に尽力した職人は、木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、駿河指物・駿河漆器など静岡市の特産工業へと発展した。また模型はその後プラモデル産業へと発展し、静岡は全国一のプラモデル産地となっている。

神部神社・浅間神社本殿

浅間神社と徳川家康公との関係

徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬した。 まず1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。そして1582年(天正10年)、三河遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞(賤機山城)を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。さらに家康が大御所として駿府在城時の1607年(慶長12年)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽(現、静岡県指定無形民俗文化財・4月5日奉奏)を奉納した。 Wikiより

再度社殿を建造したのは、武田氏を攻略した1582年以降のことか。

 

神部神社・浅間神社本殿

浅間神社に孔雀と万年青の彫刻

浅間神社に孔雀と万年青

 

万年青の彫刻

実は絵として描かれているのか

豪華絢爛、金の覆輪の万年青ですね。

 

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