貝原益軒 花譜に萬年青 元禄11年[1698]  オモトは藜蘆ではない!?

貝原益軒 花譜に萬年青 元禄11年[1698]

貝原益軒 花譜に萬年青 元禄11年[1698]

上巻の序文です。

 

上・中・下巻とあり、下巻の草の項に萬年青があります。

花譜と菜譜がともに上中下の三巻の構成になっています。

国会図書館より

 

花譜 巻の下に萬年青があります。

 

下巻の草の項 目次

萬年青にヲモトとルビをふってあります。

 

萬年青 オモト/ヲモト

 

書き起こし

明治の文献か書き起こしてあります。 中村学園大学HPより

最初にある三才図絵は1607年の中国の書。リンク先に原本と萬年青の絵があります。三才図絵は当時の中国の百科事典。

萬年青は肥土を好み、冷茶をそそぐべしと書いてあります。

 

オモトは藜蘆ではない!?

ここに「篤信云、和俗に、あやまりておもとを以藜蘆とす。薬屋是をうる。是に非ず。」とあり、この文が藜蘆はオモトではない、という根拠になっています。

篤信とは誰なのでしょうか?

室町時代の辞書にある藜蘆にはヲモトとルビがふってありますがどちらが正しいのでしょうか?

オモトは江戸時代最初期の薬草園でも薬草として育てられています。この文だと、オモトは藜蘆ではないということですが、ここを何が間違いで何があっているのかを知りたいです。

 

花譜 貝原益軒 著 京都園芸クラブ より

花譜 貝原益軒 著 京都園芸クラブ より

 

萬年青は肥土を好み、冷茶をそそぐべしと書いてあります。

 

 

貝原益軒は、中村学園大学HPより

貝原益軒は、「養生訓」、「和俗童子訓」の著者であるだけでなく、歴史学者、地理学者として広く国中を見て回って「筑前国続風土記」を書き、博物学者として路傍の雑草、虫や小川の魚まで詳細に観察し「大和本草」に記述している。益軒はさらに、自宅の庭で花や野菜の栽培を実践していたことも知られている。著書「花譜」と「菜譜」はこのような経験に基づいて肥料の与え方や移植の時期に至るまで植物の栽培方法について詳細に記載したものである。

植物についての益軒の著述は寛文12年(1672)に「校正本草綱目」の翻刻がなされたときに、その5巻に「品目」「名物付録」を執筆したのに始まる。この頃から自宅で植物栽培を行ってきたと考えられる。元禄7年(1694)には「花譜」が、宝永元年(1704)には「菜譜」が発行された。「大和本草」の刊行はこれに続く宝永6年(1709)のことである。「花譜」と「菜譜」は「大和本草」とともに、300年前にどのような花が植えられ、どのような野菜が栽培されていたかを示す重要な文献である。益軒は農業に興味を持ち、日本最初の農業書と言われる宮崎安貞(筑前国糸島郡女原村)の「農業全書」(1697)の完成に大きく関わっている。

中村学園大学HPより

 

 

世界大百科事典より

水野元勝の《花壇綱目》(1681)は180あまりの花を取りあげる。以降,貝原益軒の《花譜》(1698),伊藤三之丞(伊兵衛)の《花壇地錦抄》(1695)と続き,江戸時代を通じ70におよぶ園芸書が書かれる。安楽庵策伝の《百椿集》(1630)をはじめ,ツツジ,キク,サクラ,ボタン,ウメ,アサガオ,ハナショウブ,ナデシコなど花の専門書が出版され,さらにモミジ,カラタチバナ,オモト,マツバラン,セッコクなど葉を観賞の対象とした多数の品種を成立させた。…

 

 

 

 

 

貝原益軒 Wikiより

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

「貝原益軒像」 個人蔵 狩野昌運筆 貝原益軒讃 1694年(元禄7年)

貝原益軒の座像(福岡市中央区・金龍寺)

貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日寛永7年11月14日) – 1714年10月5日正徳4年8月27日))は、江戸時代本草学者、儒学者。

生涯・人物

筑前国(現在の福岡県福岡藩士、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。

1648年慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、藩医として帰藩[1]。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵山崎闇斎松永尺五向井元升黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂する。

『大和本草』(国立科学博物館の展示)

幼少のころに虚弱であったことから、読書家となり博識となった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている。

70歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に60部270余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』、『家道訓』。紀行文には『和州巡覧記』がある。

『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著した。

思想書としては、1712年(正徳2年)の『自娯集』。学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大擬録』などがある。

1714年(正徳4年)に没するに臨み、辞世の漢詩2首と倭歌「越し方は一夜ひとよばかりの心地して 八十やそじあまりの夢をみしかな」を残している。

1911年明治44年)6月1日、贈正四位

Wiki より