京都 瑞巌山 圓光寺(円光寺) | 基本情報 | 苔と新緑、紅葉 | 万年青と徳川家康公 | 円山応挙 奔龍庭 十牛之庭

瑞巌山 圓光寺(円光寺)

圓光寺(円光寺)は

京都市左京区一乗寺にある徳川家康公が創立した寺院。息をのむ美しさの苔と紅葉の美しい【十牛之庭】、平成に作庭された枯山水庭園【奔龍庭】【円山応挙筆の「雨竹風竹図屏風」】本堂、水琴窟、十牛之庭に万年青が植えられている。

基本情報

【拝観時間】午前9時~午後5時
【拝観料】大人 \500 高・中 \400 小 \300
〒606-8147 京都市左京区一乗寺小谷町十三番地
TEL 075-781-8025 fax 075-781-8035
(電話受付時間 午前9時~午後5時まで)

【ご案内】
市バス 5系統 一乗寺下り松下車 徒歩10分
叡山電鉄/叡山線 一乗寺下車 徒歩15分
駐車場(30台)有り

季節によって早朝拝観があったり、座禅などもできるようです。

私は駐車場の入り路がわからず、宮本武蔵にゆかりのある八大神社さんの駐車場に停めました。入口の北側(向かって左側に)20台ほど無料の駐車場があるようです

紅葉時期には、7時30分から拝観できる予約制の早朝拝観があるようです。早朝拝観は毎日70名。圓光寺さまへお問い合わせください。

2020.7.22現在作成、詳細は圓光寺さまへお問い合わせください。

 

 

苔むした素晴らしい庭園。

この画像の右へ行くと、宮本武蔵の八大神社、左へいくと曼殊院鷺森神社武田薬品薬草園がある。武田薬品薬草園には伺ったことがあり、その書籍には万年青が最初に薬草として載っている。

 

開基(創立者)は徳川家康公

開基とはお寺を開くこと、出資者のこと。慶長6年(1601)徳川家康は下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。その後、圓光寺には相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667)現在の一乗寺小谷町に移転された。裏山には当山開基の徳川家康公を祀った東照宮(徳川家康公の歯がある)の墓がある。

圓光寺の由来 開基 徳川家康公

 

こんなところにも三つ葉葵?が!!

 

立派な門

右には座禅の案内が

 

 

右手の受付を済ませ、お庭へ

京都の町からは離れ、ゆったりとした時間

 

 

枯山水のお庭

 

奔龍庭 – 枯山水庭園

名の通り、龍が奔る(はしる)躍動感のある平成の枯山水。なだらかな階段を上った後にガラリを雰囲気が変わる。白砂を雲海に、石組を龍や稲妻に見立てたお庭に引き付けられる。石柱はかつて井戸の部材として使われていたもの。

 

 

平成に作られた、アートを感じるお庭

作庭家の名前は判らななかった。もしわかる方、お教えください。

 

奔龍庭を右手に見ながら、右側の瑞雲閣へ、円山応挙さんを見に行きます。

円山応挙筆の「雨竹風竹図屏風」

この圓光寺さんの「十牛之庭」を進むと、応挙竹林と呼ばれる孟宗竹の竹林がある。そこは、円山応挙がよく訪れた竹林で、この竹林を「雨竹風竹図」として描き残した。

禅語にある「清風動脩竹」(せいふうしゅうちくをうごかす:あるがままの姿は美しいが、それに執着しないことこそ素晴らしい)のとおり、風に吹かれ雨に打たれる竹林の情景は、常に変化を続ける人間のあり方そのもの。刻一刻と表情を変える竹林に、禅門の本質をみたのかもしれない。

円山応挙が圓光寺にお礼の印として寄贈された。撮影可能のこの屏風は複製品。

 

 

応挙竹林と呼ばれる孟宗竹の竹林

「十牛之庭」の奥に。

近くに(この写真を撮った人の後ろ側に)徳川家康公の歯があるといわれる、東照宮があります。

 

圓光寺の沿革

 

 

琳派彩還 四季草花図 渡辺章雄

琳派彩還 四季草花図 渡辺章雄

十牛之庭 じゅうぎゅうのにわ

の素晴らしさ、紅葉の素晴らしさ

この美しさに紅葉の時期(11月中旬から12月中旬)にはとてつもない人出になるそうです。

苔好きにはたまらないお庭で、奔龍庭の枯山水からガラリと緑一色になる景色の変化ははっとします。

どこかのブログで読んだ気がしますが、この【十牛之庭】には牛に見立てた石が10配置されており、その石一つ一つが「十牛図」の一つの場面を現しているそう。禅寺らしい、禅問答のようなお庭!?十牛図(じゅうぎゅうず)を庭に落とし込んでいるので、庭もそのように、場面が進むにつれ、ガラリを変わっていく。

 

奔龍庭からの門を抜けると別世界

入口の右下、石の根付に万年青が植わっています。

 

柱と額縁に見立てた、額縁庭園とも呼ばれる。

 

 

十牛之庭 名前の由来

牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして近世初期に造られた池泉回遊式庭園。庭園南側には洛北最古の泉水、栖龍池があり、先人たちはここからの眺めを絶景として褒め称えたという。

十牛図に描かれた牛とは、人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしている。牧童が禅の悟りにいたるまでの道程であり、懸命に探し求めていた悟りは自らのなかにあったという物語だ。修行道場としてこれまで多くの雲水((雲がどことさだめなく行き水が流れてやまないように)諸国を修行して歩く僧。行脚(あんぎゃ)僧。)たちが参禅の日々を過ごした圓光寺。

作庭者がわかりませんでした。誰かわかる方がいらっしゃったらお教えください。

  1. 尋牛 – 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、分別の世界に陥って仏性から遠ざかる
  2. 見跡 – 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない
  3. 見牛 – 行においてその牛を身上に実地に見た境位
  4. 得牛 – 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます
  5. 牧牛 – 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる
  6. 騎牛帰家 – 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない
  7. 忘牛存人 – 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる
  8. 人牛倶忘 – 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界
  9. 返本還源 – 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る
  10. 入鄽垂手 – 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある

十牛図 Wikipediaより

 

最初の牛の石なのか、最後の牛の石なのか

万年青が根付に使われている。

  1. 牛は見つからないという状況。なのか、10。入鄽垂手 – 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要があるというものなのか。

 

万年青にも何か意味があると思ってしまう

家康公に関係するのか、悟りの庭に関係するのか。

 

右側が本堂

赤いじゅうたんの中の部屋に、10の牛の書かれた、丸い10枚の絵があります。

 

 

庭が静か

圓光寺 【十牛之庭】におもと

本殿の前におもと

 

 

群生している。

木の下にある日陰の方が葉の色がよい。

万年青。

 

水琴窟の裏におもと。

 

十牛之庭におもと

洛北で最も古いといわれる栖龍池(せいりゅうち)と水琴窟

 

洛北で最も古いといわれる栖龍池(せいりゅうち)

 

 

水琴窟。

今までで一番音が清らかだったように思います。この水琴窟だけでも足を運ぶ価値あり、のお庭です。

 

東照宮 – 徳川家康の歯を埋めたとされる。

ここからの洛北地域の展望は良い。

山の上に東照宮があります。

圓光寺からの京都の眺め

遠く嵐山まで見ることができる

庭の素晴らしさに忘れていましたが、なだらかな山になっています。

 

日本の初期の活字本の一つ「伏見版、圓光寺版」の印刷事業

圓光寺版といわれる出版物があるように、日本の印刷の歴史にとって画期的なもの。家康から木活字を下賜され、『孔子家語【こうしけご】』『三略【さんりやく】』『貞観政要【じようがんせいよう】』等の漢籍の出版を行った。これらの書物は、現在「伏見版・圓光寺版」として知られる。
伏見版書籍の印刷に用いられた活字を主体として、一部補刻の活字等を交えて、五二〇〇〇個余が重要文化財になっている。

伏見版(ふしみばん)とは、江戸時代初頭に、徳川家康の命により、山城伏見の伏見学校の一角に建立された円光寺(現在地は、京都市左京区一乗寺)において開版された木活字版のことである。円光寺版ともいう。

伏見学校は、足利学校第9世の三要元佶を招請して創建したものである。

元佶が出版した書籍は、1599年の『孔子家語』、『六韜』、『三略』が最初である。

1600年には、西笑承兌により、『貞観政要』が出版されている。

1605年には、やはり西笑承兌により、『吾妻鏡』と『周易』が出版されている。

1606年には、元佶によって、武経七書が開版された。この間に刊行された書籍は、8部80冊である。

1612年の、開山である元佶の没後、臨済宗に属する円光寺は、相国寺の境内に移り、その後、寛文年間(1661年 – 1673年)には、愛宕郡修学院村(現在地)に移転している。

「円光寺由緒書」によると、伏見版に使用された木活字は家康から拝領したものとされる。1815年に皆川允が亡父の遺稿集(『淇園文集』)などを出版した折に、活字を拝借し不足を補ったことから新旧二種の活字が現存している。

wikiより

本堂の前の水琴窟

 

閑室元佶

圓光寺を開山した方。

世界大百科事典 第2版の解説

1548‐1612(天文17‐慶長17)
近世初期の臨済宗の僧。号は三要。肥前小城郡晴気村の出身。はじめ金庭菊についてその法をつぎ,のち南禅寺で学殖を深め,やがて下野(しもつけ)に下って足利学校の校主となり,徳川家康の知遇をえて退廃した学校を整備中興した。家康は畿内を制すると,元佶のため伏見に円光寺を建て儒仏の典籍や活字を寄せて古書の出版に当たらせた。これが世にいう円光寺版(伏見版)であって,元佶が近世文教の復興に果たした役割は大きい。その後も元佶は家康に重用され,金地院崇伝とともに,幕府の寺社行政,外交文書の作成,海外渡航朱印のことなどをつかさどり,初期幕政の枢機に列した。

 

京都左京区一乗寺 近隣の寺社仏閣

  • 詩仙堂  万年青植えられていました。
  • 狸谷山不動院
  • 八大神社
  • 鷺森神社
  • 曼殊院

 

寺社仏閣のおもとの彫刻・植えられた万年青 一覧