萬年青の歴史 豊明園初代  大正8年

萬年青美術懸賞大会  大正8年 (1919年)

大正七年の秋に、千代田の松の初めての芋吹きが、高価に取引されたのを契機に、オモトの愛好家の間で動きが活発になりました。
大正八年二月二十三日、愛知県額田郡福岡町(現在岡崎市)の説教所(公民館)において、水野淳治郎(豊明園初代)の発案で、三河萬年青同好会の面々が『萬年青美術懸賞大会』を開催しました。
特別懸賞品目に、二十世紀、日光および萬宝龍を含む『二面縞甲龍』と『羅紗縞龍乗り』の二点を取り上げて、それぞれに、1等賞に百円(但シ二十円の債権五枚)、二等賞に金側時計一個、三等賞に銀瓶一個の副賞を付けて大いに鼓舞しました。

水野淳治郎(豊明園初代)
明治十四年六月、愛知県碧海郡六ッ美村大字中島字高畑の旧家の十七代水野躰蔵の五男に生まれ、明治三十年、十六歳のときに萬年青会に入門栽培に着手。明治三十七年の春、おもと商豊明園を興す。
萬年青美術懸賞大會
(第一回目の大会)
大正八年二月二十三日
日月星・天錦章・富士の雪・玉獅子・玉獅子の虎・根岸の松・鳳凰・錦麒麟・錦紫殿・美鳳・紅流などの銘品や当時、人気の高かった萬代・初菊・春駒・抜群・錦松・春日・豊公・漲雲・麟王・折鶴・巌龍・二面縞・環城楽・多門龍・龍頭・大正龍・玉孔雀・大冠・泰平・群雀虎・群雀・真鶴・松の霜・慶賀・福戒・福寿海・晃麟・天明龍・天授龍・天祐・新玉・青龍頭・愛知鳳・旭鶴・笹の雪・金龍・輝鳳冠・金鶏・錦鳳・玉鳳・金星・貴宝青縞・三河龍・都鳥・縞甲龍・神風・世界の図・瑞鳳・および銘将といった品々に、全国のオモト関係の著名者が賞をかけて、この大会を盛り上げました。
たとえば、名品・千代田の松を産出して有名な、東京市本郷区駒込上富士前町の松谷正太郎氏は、天授龍という品種の一等賞の副賞として金側時計一個を贈呈、折鶴という品種の一等賞の副賞には額面十円の債権を1枚贈りました。
水野淳治郎がオモト会の不況打開策の一つとして熟慮のすえに行なった『萬年青美術懸賞大会』であつた、ポスターもずいぶん派手なもので、縦長の大きな紙面いっぱいに、二面甲龍を立派な鉢に植え込んで中央に配し、下方にはこの年の干支にちなんで躍動する馬を描いたデザインの、極彩色の浮世絵風の実に美麗です。
『萬年青美術懸賞大会』は、こうして、発案者水野淳治郎の目論見どおりに、みごと図に当り、大きな成果を収めました。
大正七年この年、七月二十三日、富山県下新川郡魚津町(現在魚津市)の主婦ら数十名が、米の価格暴騰を防止するため、米の県外の船積み中止を荷主に要求しょうとして、海岸に集合したのに発端して、米騒動が勃発。七月二十九日、米価は、期米、正米ともに暴騰を続け、小売価格は1円で二升四合しか買えなくなりました。八月十三日と十四日には、全国の大中の都市で米騒動は絶頂に達し、九月十七日までに、全国の三七市,百三十四町、百三十九か村に及びました。九月二十九日には寺内正殻内閣が崩壊し、九月二十九日に原敬が組閣。
                文  オモト研究家 芦田 潔

 

大正七年松谷正太郎氏は自ら芋吹きを実践し、始めて千代田の松の芋吹きを得、それをこの年の秋、愛知県一色村の高須七郎氏に当時の金で一萬円で譲渡しました。そして二日間にわたつて東京両国の福井楼で開かれた披露宴には、第一日目は大隈信常候、東京市長 母木桂吉、早稲田大学学長高田早苗など各界の名士多数を招いた盛大なものであったといいます。世間では大正成金ができる一方で、全国に米騒動が広がっていた時代のことですから、これはすっかり驚いたようです。

一品種の種目に寄贈者の氏名が多数のっています、七十品種の種目で全国各地の萬年青愛好家の有力者の面々約八十名、個人名、団体名が掲載されています。最後に左側下発起人水野淳治郎(豊明園初代)と掲載されています。

真中の画面は一品種づつ品種名、寄贈者の氏名寄贈の商品名(債権・時計・カバン・反物)が書かれています。

 

右 オモト研究家 芦田 潔

左 豊明園2代目  水野淳蔵

               萬年青の歴史本より