根岸の肴舎 萬年青培養秘録 

篠常五郎編『萬年青培養秘録』明治18年刊 全

万年青(おもと)の育て方を木版画入りで紹介 園芸・植物学・本草学

 

 

肴舎(さかなや)の入り口「萬年青共進會」

肴舎篠常五郎、江戸時代文化年間(1804~1818)からおよそ百年間オモト界を代表した老舗「肴舎」は、当時、東京府北豊島郡金杉村根岸九十三番地に所在したころから地名を冠せられて、人に「根岸の肴舎」と呼ばれました。屋号の「肴舎」は、文字通り祖先が魚類を販売していたからです。明治二十八年五月、明治天皇がお求めになったオモト「折尉火斗縞」と「於多福」の二品を、お預かりし管理したと伝えられています。

「初世吉五郎」のオモト商としての実績は明らかではありませんが、「二世吉五郎」は、文化二年に「肴屋」というコオモトを打ち出していて、のち「煙草葉墨流」「松の霜」「根岸松」「若松」「子宝」「富士の雪」などのオモトを取り扱ったことが知れます。

二世吉五郎には妻「てつ」との間に二男があり、長男を「吉之助」、次男を「恒成」といいました。吉之助は肴屋を継承せず分家し、東京市本郷区千駄木林町に住み、二世吉五郎も晩年ここで過ごしたようです。

恒成は、天保七年(1836)九月二十九日生まれで、とくにオモトの新品種を出したという記録はなく、明治十一年に「萬年青銘鑑」を刊行したのが業績といえます。そして明治十二年八月二十五日になぜか四十三歳の若さで早くも隠居届けをしました。と同時に、萬延元年(1860)三月三日、折しも桜田門外で変事のあった雪の日に、恒成と妻「な津」との間に長男として生まれた常五郎が、わずか十九歳で家督を相続し、肴舎四代目当主となりました。常五郎は、明治十七年十月二十一日から二十七までの七日間、邸内で「萬年青共晋會」を開催し、好評を得て以後毎年の行事としました。

 

 

肴舎(さかなや)の邸内で開かれた「萬年青共進會」のようす

「根岸松」題字は長三州書 
肴舎篠常五郎著『萬年青圏譜』掲載

明治十八年には、三条実美、栗本鋤雲、山岡鉄舟ら超一流の人たちの力を得て『萬年青圖譜』と『萬年青培養秘録』を発刊載掲しました。
また、『萬年青銘鑑』には題字をはじめオモトの寸描と和歌、漢詩など・当時の貴顕や著名な書家文人に揮毫してもらい・他に類のない文化の香りの濃い立派なものオモトそのものの価値まで高めました。

 

明治二十八年五月、明治天皇がお求めになったオモト「折尉火斗縞」と「於多福」の二品を、お預かりし管理したと伝えられています。


明治三十三年、『増訂萬年青圏譜』を出しオモトの認識を高めました。

大正六年八月二十日、肴舎篠常五郎は五十九歳の生涯を閉じました。

豊明園 萬年青の歴史より

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