シーボルトと万年青

シーボルトと万年青

シーボルトはどんな人?どんな経歴?

シーボルト 川原慶賀筆

シーボルトは、医学者、博物学者のドイツ人。代々大学の医師の家系で、自身も医学を修め、町医者になる。後に、東洋学を志し、1823年、26才の時、オランダ国王の侍医の斡旋で、鎖国時代の日本にやってくる。長崎の出島で、ドイツ人にも関わらず、オランダ商館の医者になる。来日した年の秋には『日本博物誌』を書き上げ、翌年には鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。その翌年、1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。1827年には、日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネをもうけ、アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksa と命名しているが、これは滝の名前をつけていると、牧野富太郎は推測している

1828年に帰国する前、国外に持ち出すことが禁止されていた日本地図が見つかり、国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。(シーボルト事件) 日本側の地図を贈ったものなどが処分、死罪をうけた。

1858年 – 日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除され、1859年 – オランダ貿易会社顧問として再来日した。

シーボルトが持ち帰った植物

1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る。

シーボルトが、導入した植物は、アジサイ、レンギョウ、ツバキ、サザンカ、
イタドリ、シキミ、コウヤマキ、キリ、ウメ、ユリ、ボタン、ハウトマン号;ヤマトリカブト、ツバキ、ヤブニッケイ、テッセン、バイカイカリソウ、タラヨウ、ネズミモチ、サンゴジュ、オモト、ギボウシ、ムサシアブミ、タイワンバナナ、シュンラン、カヤ、ジャワ号;セキショウ、アワモリショウマ、カリン、ナワシログミ、イカリソウ、オウバイ、ヤマブキ、ハマビワ、ヒガンバナ、ノシラン、ガンセキラン、ナギ、カヤ、イチョウ、コバノタツナミ、ケヤキ~彼のもっていったものは、有る意味では、日本の植物の総ざらいのところがある。ヨーロッパに、日本植物園をつくる目的のようで薬用とか、園芸用にこだわっていないことがすごい。

 

海外の人から見た日本の植物の価値、万年青の価値

シーボルトは、全く新しい未知のものすべてをまずコレクションすることが大切だと考えたのかもしれない。

 

世界で初めての植物の通信販売をした人、とも言われており、自分が命懸けでハントしてきた日本の植物を、ヨーロッパ中に紹介し、販売しました。

ヨーロッパの人々にとって未知の国であった日本を、探検し、その植物でヨーロッパの庭園を大きく発展させようと試みました。現在、ヨーロッパの庭園をみると、アジサイ、椿、シキミ、山茶花、ユリなど多くのシーボルトが導入した植物が植えられ、愛されています。その試み、挑戦は大成功だったと思われます。

 

Created: 1 January 1806

Bentham-Moxon Trust.; Curtis, William; Curtis’s botanical magazine dedications, 1827-1927 : portraits and biographical notes.; Royal Botanic Gardens, Kew.; Stanley Smith Horticultural Trust.https://www.flickr.com/photos/biodivlibrary/10594566173

 

コラム ロバート・フォーチュン 日本の園芸のレベルの高さ

ロバート・フォーチュン (1812-1880)の著作【江戸と北京 幕末日本探訪記】より(江戸時代1603-1868)

日本人の国民性の著しい特徴は、庶民でも生来の花好きであることだ。
花を愛する国民性が、人間の文化レベルの高さを証明するものであるとすれば、日本の庶民は我が国イギリスの庶民と比べるとずっと勝っているといえる。

 

献名

シーボルトに対する献名として、学名に”sieboldi“または”sieboldii“が命名されている生物は数多い。

植物
動物

 

 

シーボルトは、医学者、博物学者のドイツ人。代々大学の医師の家系で、自身も医学を修め、町医者になる。後に、東洋学を志し、1823年、26才の時、オランダ国王の侍医の斡旋で、鎖国時代の日本にやってくる。長崎の出島で、ドイツ人にも関わらず、オランダ商館の医者になる。来日した年の秋には『日本博物誌』を書き上げ、翌年には鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。その翌年、1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。また、日本茶の種子をジャワに送ったことにより同島で茶栽培が始まった

1827年には、日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネをもうけ、アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksa と命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけている 牧野富太郎が推測している

1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。

1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る。

 

 

日本に近代医学を伝えた医学者としてのシーボルト。禁制の日本の地図を持ち出そうとした、いわゆる「シーボルト事件」で永久国外追放処分を受けたシーボルト。

だが、植物学者としてのシーボルトを知らずして、その大きな実像は見えてこない。ユリ、ツバキからレンギョウまで数多くの日本植物を、植物相の低いヨーロッパに持ち帰り、それを広めた功績、先見性は、二十一世紀に入った今日、その輝きを増している。多面的に描く全く新しいシーボルト像。

 

 

 

シーボルト Wikiより

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ズィーボルト)(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年2月17日 – 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。出島の三学者の一人 Wikiより

シーボルト家は、父祖父ともに大学の医師であり、医学界の名門。 姓の前に、von(フォン)とついているが、これは貴族階級を現す。ドイツで医学を修め、植物、動物、地理も学んだ。町医者になったが、東洋学研究を志し、オランダ国王の侍医の斡旋で、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐になる。

1823年、来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。エンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルグとの3人を「出島三学者」などと呼ぶことがあるが、全員オランダ人ではなかった。来日した年の秋には『日本博物誌』を脱稿

出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。また、日本茶の種子をジャワに送ったことにより同島で茶栽培が始まった

日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。シーボルトが江戸で多くの蘭学者らと面会したときに「あなたの仕事は何ですか」と問われて、「コンデンスポンデーヴォルデ」(内情探索官)と答えたと渡辺崋山が書いている。

1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、将軍御典医桂川甫賢、蘭学者宇田川榕庵、元薩摩藩主島津重豪、中津藩主奥平昌高、蝦夷探検家最上徳内、天文方高橋景保らと交友した。この年、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送る

徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を受け取った。

来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksa と命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけている 牧野富太郎が推測している

1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。

帰国

1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る。滞在中のアントワープで東洋学者のヨハン・ヨーゼフ・ホフマンと会い、以後協力者となる。翌1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、ウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる。同年、蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設。ルートヴィヒ1世からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る[1]。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。

日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。

一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草している。

1853年のアメリカの東インド艦隊を率いたマシュー・ペリー来日とその目的は事前に察知しており、準備の段階で遠征艦隊への参加を申し出たものの、シーボルト事件で追放されていたことを理由に拒否された。また、早急な対処(軍事)を行わないように要請する書簡を送っている。

1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。

48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女をもうけた。

再来日とその後

晩年のシーボルト

1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する[8]。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す[8]。江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される[8]。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させる[8]1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。

1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される[9]。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高額を理由に拒否される[9]。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される[9]1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力する一方、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められ、これを渋った。その渋りようは相当なもので、僅か3箱だけを数年後にようやく返したほどだった[9]バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず[9]。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く[9]。再度、日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した[9]。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地 (Alter Münchner Südfriedhof) にある。

年表

  • 1796年2月17日 – 神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに生まれる
  • 1805年 – ハイディングフェルトに移住
  • 1810年 – ヴュルツブルクの高校に入学
  • 1815年 – ヴュルツブルク大学の哲学科に入学。家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことに
  • 1816年 – バイエルン王国の貴族階級に登録
  • 1820年 – 大学卒業。国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業
  • 1822年 – ゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命
  • 1822年 – オランダのハーグに赴く
  • 1822年7月 – オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる
  • 1822年9月 – ロッテルダムから出航
  • 1823年3月 – バタヴィア近郊のヴェルテフレーデン(ジャカルタ市内)の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任
  • 1823年6月末 – バタヴィアを出航
  • 1823年8月 – 来日
  • 1824年 – 鳴滝塾を開設
  • 1825年 – 出島に植物園を作る
  • 1826年4月 – 第162回目のオランダ商館長(カピタン)江戸参府に随行
  • 1827年 – 楠本滝との間に娘・楠本イネをもうける
  • 1828年 – シーボルト事件
  • 1830年 – オランダに帰国
  • 1831年 – オランダのウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる
  • 1831年 – 蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託される
  • 1832年 – ライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設
  • 1832年 – バイエルン王国・ルートヴィヒ1世からバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る
  • 1832年 – オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』刊行開始
  • 1844年 – オランダ国王ウィレム2世の親書を起草
  • 1853年 – アメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請
  • 1857年 – ロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草
  • 1845年 – ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚。3男2女をもうける。
  • 1854年 – 日本開国
  • 1858年 – 日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除
  • 1859年 – オランダ貿易会社顧問として再来日
  • 1861年 – 対外交渉のための幕府顧問に
  • 1862年5月 – 多数の収集品とともに長崎から帰国する。
  • 1863年 – オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進
  • 1863年 – オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される
  • 1863年 – 日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示
  • 1864年 – オランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰る。
  • 1864年5月 – パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力
  • 1864年 – ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催
  • 1866年 – ミュンヘンで「日本博物館」を開催
  • 1866年10月18日 – ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去