江戸時代の幕府薬草園に万年青  |  尾張藩御深井御薬園とおもと  |  月刊誌・趣味の山野草掲載 栃の葉書房

万年青は縁起物の前に、薬草だった

江戸時代、徳川家康公が江戸城に3鉢のおもとを抱えて入城したという故事の以前に、おもとには縁起物としての価値だけでなく、薬用植物としても大切にしていました。日本最古の小石川薬草園(小石川植物園・東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園)や同時代の尾張藩御深井(おふけ)御薬園など名だたる名薬草園におもとは薬草として大切に育てられていました。

今回、江戸時代の尾張藩御深井御薬園の地図をみながら、江戸の薬草とおもとというテーマで見ていきたいと思います。

江戸時代の尾張藩御深井御薬園の地図

様々な薬用植物が、絵と名前入りで描かれています。

 

右上の池の部分を反転して、拡大したのが下の画像

 

御深井御薬園は1600年代に作られた、日本最古ともいわれる薬草園で、元は花壇や果樹園を兼ねた形態だったのが、庭園形式の薬草園へと発展し、御深井御薬園となっています。

この薬草園は、名古屋城の北部・現在の名城公園一帯に存在した大庭園である下御深井(したおふけ)御庭の一部としてつくられ、尾張徳川家御庭焼の御深井焼(おふけやき)、御花畑・御犬部屋・御鷹匠部屋などとともに、尾張徳川家当主の私的な遊興空間・儀礼空間でした。そのため立ち入りは制限され、当時、一般には知られることのない秘園でした。

 

尾張藩御深井御薬園 おもと(藜蘆) 発見!

薬草園の地図を見ていただくと、すべての植物に非常に詳細な絵と名前が書いてあるのがわかると思います。おもと(藜蘆)がのっている場所を下の写真に拡大してあり、尾張藩主が臨場の際に小休所としても使われた御薬苑堂薬園方の役宅の東側、御スアマ(蓮池)の北側にあります。この地図には南北43間、東西87間と書かれているので、南北には約33メートル、東西に8メートル植えられていたと推測しています。おもとの区画の中にはリンドウやカキドオシ、スミレ、五味子などがあります。他の薬草園の絵図でも枠と文字だけで植物が書かれているものが多い中、見ていても面白くわかりやすい資料でした。

真ん中の池の9時から2時の方向(池の左側と上側)

池の左上におもと(藜蘆)と書かれています

 

小石川御薬園奉行 「御薬草木取扱方書付」

また違った角度からおもとをみてみますと、小石川御薬園奉行である岡田左門、芥川小野寺(家康以来累代の園芸家)の書き付けた「御薬草木取扱方書付」からおもとの項を拾って

藜蘆

是者根物にて九月節に至り植付申候 土地者日当り候 処冝敷土拵方は諸作同様にてうない壱尺五寸作立深サ三寸位四寸間に下タ肥シ同断にて植付申候 翌年芽出し壱年に都合三度薄肥しかけ草取捨三四度作切申候

製し方之儀は九月節に至り根堀起実入冝敷ヲ薬ニ取り水にて土ヲ洗落し日乾仕候』

旧暦の九月節なので、新暦の9月20日~10月20日頃でしょうか。秋の植えかえとぴったり一致するのが驚きました。

他にも、駒場御薬園、浜離宮の浜庭薬園、京都御薬園、熊本藩薬園、福岡藩薬園、奈良の森野薬園にも薬草としてのおもとが文献に現れてきます。

当時の医療である漢方、和方のことを考えると、今のように西洋医学のない時代、なくてはならないもので、幕府、藩ともに江戸初期に力を入れて薬草園をつくったのがわかります。

これからおもとの歴史、特に古くからの歴史を紐解いていくときに、薬草としてのおもとをみていけば、おもとがなぜ縁起物として喜ばれるのか、日本の文化として大事にされてきたのかもわかってくる気がします。

 

参考文献

尾張藩御深井御薬園絵図

増補改訂 日本薬園史の研究

昭和5年 著者 上田三平

序に小石川植物園が東京大学附属となった2代目園長二代目三好学(1922年)の名も紹介される

栃の葉書房・趣味の山野草月刊誌に掲載

この文章と写真は、栃の葉書房・趣味の山野草月刊誌に掲載されたものを加筆修正してアップしています。

 

 

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